茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

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長い長い影  栽監督追想

沖縄では早くも16日、夏の甲子園に向けて高校野球の県大会が開幕。
ふと、先月死去した沖縄水産高・栽監督の姿が浮かんだ。


昭和50年代、沖縄は既に高校野球の強豪県となっていた。
にも関わらず、人々はその代表へ地元や故郷の代表に対する情とは別の、
一種判官贔屓的な祈りに近い応援を寄せているように見受けられた。
私にとっても、甲子園に躍る沖縄代表の選手たちのプレーは、
近現代の沖縄の歴史を無意識に想起させるドラマであった気がする。
そして、栽監督はそういった沖縄の高校野球を象徴する人だった。


記憶には赤嶺、石嶺ら豊見城高監督当時に活躍した選手の顔も残るが、
栽監督と言えばやはり沖縄水産高を率いた将という印象が強い。
監督の風貌と共に、幾度となく流れた同高の校歌をも私はいつしか覚えた。

あの校歌はいつ作られたものだろう。
作詞者の山城正忠は與謝野鐵幹に師事した著名な歌人とのことゆえ、
或いは戦前の沖縄県立水産学校時代にまで遡るのかもしれない。
なるほど、どこか鐵幹のますらおぶりに通じる意気高さが好ましい詞だが、
正直なところ、初めに聴いたときはどきりとした。
「鳴りてし止まぬこの腕 揮う我らの独壇場ぞ」
という一節に、落下傘部隊をモデルとした軍歌・『空の神兵』の
「撃ちてし止まぬ 大和魂…」
を思い出してしまったからだ。
勿論突拍子もない連想で、こじつけめいたことをと我乍ら恥ずかしくなったが、
先程述べた、沖縄の歴史への無意識な想起がここにも表れていたようだ。


昭和33年、沖縄勢で初めて甲子園に出場した首里高の選手たちが、
球場の土を持ち帰ったものの、沖縄はまだ米国の統治下にあったため、
植物検疫法の壁により泣く泣く船中から海へ捨てたという出来事は、
高校野球ファンの多くが知るところである。
当時、栽監督は糸満高の球児だった。
「甲子園で優勝しなければ沖縄の戦後は終わらない」
栽監督の口癖だったというこの言葉の意は高校時代に端を発した、
穿った観方かもしれないが、そう考えてもさほど不自然ではなかろう。


昨夏の甲子園決勝、早実・斎藤投手と駒苫・田中投手の物凄い投げ合いは、
いつまでも語り継がれる名勝負に違いないが、一方不穏な胸騒ぎを覚えた。
二人の顔に平成3年夏の準優勝投手・沖水高エース大野倫の顔が重なり、
何とも遣り切れない思いがよみがえったのである。
引き分け再試合となった瞬間、明日から当分強雨になってくれ、と叫んだ。

大野“投手”はあの大会の苛酷な連投により肘を壊した。
栽監督には四連戦の完投がどんな結果を招くか十分わかっていた筈である。
投球の合間、痛みに顔を歪めながらも気丈な笑みを見せた有望投手は、
「甲子園で優勝しなければ沖縄の戦後は終わらない」
という栽監督の悲願を背負うことで投手生命を断たれた。
そう、これも一面の重い真実だ。
だが、指導者である栽監督個人の過失と言い切ってしまえぬ長い長い影が、
そこには色濃く横たわっている。

非凡な力を持つ大野倫は大学で強打者となり、“野手”として巨人入りする。
のちにダイエーへ移り、現在は母校九州共立大の職員となっているそうだ。
栽監督の訃報に際し、彼はただただ惜しみ悼む感謝の言葉のみを述べた。
その新聞記事に触れ、私は再び栽監督に心の内で名将の称号を添えた。

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