茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

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堂々巡り

死刑制度。
冤罪及び執行に関わる人々への考慮を除外し、惨忍凶悪な罪を犯したその本人のみを見、
衷情を述べるならば、私は廃止に賛成ではない。

半年ほど前の朝日夕刊『素粒子』騒動でも、そのことを再認識した。
何かと粗放な発言が多い鳩山現総相・元法相に対し、普段は、
「為政者なんだから、ちいと巷の反響ってやつを見積もってものを言え」
と舌打ちしているのに(尤もそんなの鳩山だけに限らぬが)、死刑執行を叩かれた際には、
『死神』なる言葉を用いた同コラム筆者の喧伝的な正義感に何となく嫌悪を覚えたからだ。

かと言って、廃止に大反対というわけでもない。
わからんのである、正直。

勿論、この『わからん』は、人道的な見地とは無関係な『わからん』だ。
私は凶悪事件の犯人の顔がTV画面に映るや、何のためらいもなく、
「こんな奴、罪を犯す前に死んでくれとったらよかったんやわ」
と吐き捨てる人間、人道的な見地の土など初めから蹴散らしているようなものである。


大昔。
知人のご家族が殺害された。
事件当時、新聞・TVは逮捕された男を悪鬼であるかの如く報じた。
私も当然そう思ったし、彼を激しく憎悪した。

十数年を経た或る朝、彼の死刑が執行されたという新聞記事を目にした。
その瞬間、頭の中が真っ白になった。
のろのろと新聞を畳みようやくよぎったのは、時、という言葉である。
だが、それと共に知人への慙愧の念が苦く広がった。
そんな言葉で誰がけりをつけられるのか、誰の節目になるのか。

後になって思った。
知人に対する慙愧の正体は、その『誰』に、刑死した彼も含まれていたことなのかもしれぬ。
金のため、見ず知らずのあなたのご家族を殺めた男の罪は、死刑なんかよりもっと重い。
なのに、私は、その男の死の意味を追っていた。
結局、他人事だったからだ。
あなたという知人の他人事だったからだ。

支援者等の記によれば…
男が逮捕された際、彼の友人知己は皆、本来そんな非道なことをする人間ではなかった、
何故なのだ、と、涙したそうである。
また、獄中では、死刑になるのが最も良いこと、と日々おのれの罪をかみしめるうち、
そこに至るまでの来し方に根を張っていたものに初めて気付き、社会の奥底にも横たわる、
その問題を学ぶことに没頭したという。
限られた時間の中、有実の死刑囚として真の自分を生きよう、と。

そして、執行後には、悪鬼とされた彼の死を多くの人が悼んだ、とも知った。

故意に人を殺めたら死刑になったって仕方ない、私はずっとそう思ってきた。
ゆえに、死刑制度廃止論者への、
「自分の愛する人が殺されても死刑にするなと言えるのか」
という代表的な切り返しにも、だよな、と、胸底より加担する。
それどころか、
「相手に報復した結果死刑になるなら、喜んで受け入れる」
と答える。

これは大きな矛盾を孕む考えだ。
懲罰としての報復、犯罪の抑止…合法的な殺人である死刑の目的は色々言われるが、
「相手に報復した結果死刑になるなら、喜んで受け入れる」
という台詞は、死刑制度に犯罪の抑止効果がないことを自ら示すようなものであり、
報復の心は誰も救わぬという死刑制度廃止論者の主張に逆の方向から加担している。

なまの感情では、知人のご家族を手にかけた者など絶対に許せない。
突然に、理不尽に、命を断たれた人の苦しみ、かけがえのない存在を失った人の苦しみ、
それに比べれば、死刑を言い渡された苦しみも、怯えながらそのときを待つ苦しみも、
執行の際の苦しみも、甘んじて受け入れねばならないと思う。
そこには意味が与えられているではないか。
突然でもなければ理不尽でもない、判決を経た『死』の意味が。
『生』の重さは『生』によって実感し『生』の中で反芻してゆくもの。
だが、彼が手にかけた人は、その途上、唐突に『生』を断たれ、『死』に至った。
彼に『生』の重さを教えるべく生まれてきたわけじゃないのに。
自らの『生』を全うするべく生まれてきたのに。

私は、根本的なところで人間というものを信じていない。
死刑があってもなくても凶悪な犯罪は起こると思っている。
ならば、死刑をなくしたらいい、と言えそうなものだが、それもできない。
犯罪は、既に行われてしまっている。
二度と戻らぬ被害者の命、その『生』の重さを、どう示せばいいのだ。
死刑という楔により自らの『生』と『死』を意識せずして、真の改悛となり得るのか。
光市母子殺害事件の本村さんが被告に極刑を望む本当の意もそこにあるのではないか。

ところが、『生』と『死』について強く拘ると、胸に薄墨が流れる心地になる。
知人のご家族を殺めた彼は、死刑を言い渡されたがために、人間の心を取り戻した。
しかし、死刑を言い渡されたがために、その心でもって生き直すことは許されなかった。
命の重さを巷の人よりも深く思い知ったであろう彼の前には、『死』しかなかった。
善なる魂を宿した暁、正義の名のもとに『生』を断たれた。

法は無情である。
だが、人の情だってどうだ、身勝手で鼻持ちならぬものじゃないか。
『情けは人のためならず』とはよく言ったもの、つまるところおのれの方を向いている。
私にとっては皮肉にしかならぬこの言葉が教訓のように扱われているのもさらに皮肉だ。

死刑制度についての答えは、考えれば考えるほど、結論が出ない。
存廃どちらに転んでも人でなしになるからかもしれない。
そう、私のこんな堂々巡りも、嫌らしい情のなせるわざに過ぎないのである。

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