茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

浮かれ騒ぎ

今さら言うまでもないが、私はだらしなく虚弱な半ヒッキー主婦である。
他人にしばしば意見されるほど不活発な生活を送っている。
なので、自粛ってことがあまりピンと来ない。
普段からしーんと地味。
お金の使い方だってケチケチしょぼい。

ただ。
自粛に異を唱えることも
「この国が沈みゆくのを食い止めるにはどうすべきか」
というひとつの考えとしてすんなり納得できる。
自粛に異を唱えることイコール“浮かれ騒ぎのススメ”ではないわけだし。

むしろ、ネットを覗いていてひどく奇異に感じるのは、よくある言葉狩りに似た批判同様、
“胸底から真摯に自粛を望む人”より“自粛という言葉に浮かれ騒いでいる人”のほうが多い、
そのことだ。
怒りの鉾先を向けられるべきは、誰よりまずそういう人間である。

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空虚な実

十二年前の春の或る日。
学校から帰った当時小三の伜が妙なことを訊く。
「おかあさん、もうすぐ世界が終わるって、ほんま?」
…ははーん、誰かからノストラダムス関係の話を聞かされたな。
道理で“ただいま”の声にも普段の張りがなかったはずだ…
すぐにそう思った。

『ノストラダムスの大予言』なるトンデモ本が出版され、騒がれたのは、私が小六のときだった。
終末思想の広言なんぞアホにしかできぬ所業。
アホが自己満足の予見に泥酔迷走し、派手に吐瀉したゲロに過ぎない。
とまあ、笑いの種にもできよう、年を食えば。

だが、子どもは子どもなりに敏感に巷の風を読み取る。
何を隠そう私も、『ノストラダムスの大予言』に従って余命の計算をしたクチだ。
そして、子どもはたいてい、漠然とした不安を質問の形で表す。
恥ずかしながら、あと二十六年で死んでしまうのかもしれない、という暗い思いに耐えかね、
「ねえ、おかあさん、人は死んだらどこへ行くんだろ?」
何度か母親に訊いた。

母親は、私の母親だけあってテキトーな人なので、
「そーんなのわかるわけないがねー。
 まー死んだあとにはちゃーんとわかるで、生きとるうちからとろくっさいこと考えやーすな」
河村ばりにこってこての名古屋弁であっけらかんとそう答えた。
不安の解消には至らなかったが、大人がよくやりがちな
「天国(or極楽)へ行けるような善人になりなさい」
調のずれた訓示を持ち出されるよりはマシである。
実際、中学生になったら、何が大予言だよ、とろくっさ、と、あっさり片付けられるようになった。

さて。
冒頭の、十二年前の伜の問いに対する私の答えは、
「世界が終わるなんて、アホのついた大嘘や。
 大体、おかあさんにすりゃ、自分が死んじゃったときが世界の終わりなんやもん。
 せやで、○ちゃんが病気とか事故とかに気をつければ、世界も終わらへんねんで」
であった。
別にふざけていたのでもない、そのときの真面目な気持ちだ。

どういうわけだかふとそんなことを思い出した今。
終末思想の広言なんぞアホにしかできぬ所業、という思いに勿論些かも変わりはないが、
一方、のほほんとした頭で捻り出したおのれの言の空虚な響きに項垂れる。
この大震災でいったいどれだけの世界が終わってしまったことか。
いったいどれだけの終わらへんはずの世界が終わってしまったことか。

それでも、小さな伜が現れ、また同じことを訊かれたならば…
私はやはり十二年前と同じ答えを返す。

何故なら。
被災地の凄惨であろう状況を我が身に置き換えることなどとてもじゃないができぬ私なのだ。
仮にどれほど沈痛な言を述べてみたところで、それは、痛みも苦しみも悲しみも伴わぬもの、
そう、それは、もっとうんとおそろしく空々しいものなのだ。

私は、これまで通り、普通に私らしく空虚な言をうだうだと吐く。
空虚で無教養ながらも、私の実のある言を。

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