茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

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道を説く君

昨日の記事を読み返したら、ひどくぶちキレた文章に赤面。
これじゃまるで人の情けがわからぬならず者みたいではないか。
たぶん私ゃキーを打つ間中ニコチャン大王のような顔つきになっていたことだろう。

でもまあ、やたら刺々しくなるときってのは大抵しょむない布教活動をしかけてくる者、
或いは、宗教とは無縁でも似たような思考回路で働きかける者に接した後だったりする。
他人の力になってやるという“シチュエーション”がだあい好きで、対象を求め嗅ぎ回る、
対象が見つからなきゃ他人の泣き所をつっついて悩みを作り出す、そんな人々だ。
古い事件だが、甲斐甲斐しい看病で醒めた恋人を振り向かそうと毒を盛った看護師や、
少し前に逮捕された、いの一番の手柄を誇るために放火を繰り返していた消防団員、
そいつらとあんたの心性はどう違うんだタワケ、おっとまたニコチャン大王になってきた。

但し、私は宗教や信仰そのものを否定したり忌避するつもりなど全くない。
父方の爺さんの兄は何を思ったかある日突然禅寺の僧になっちゃったという変人だが、
幼い頃この大伯父の話を聞くのがとても好きだった。
また、ぼうずの幼馴染にはお寺の子がい、毎回途中で舟を漕いだと言ってはいたものの、
奴も仏教講話に誘われちょくちょく出かけて行ったし、この頃親しくしている友の一人は、
敬虔なクリスチャン家庭に育った子、春休みに泊まりにきた際もちゃんと聖書を持参し、
就寝前にはお祈りをしていたそうな。
細眉・髪立てという今どきの子らしい外見とのギャップに申し訳なくもふきそうになったが、
お寺の子同様、ちょっとしたときふと表れる清廉さに何となく惹かれるんだとか。
自分とは違った方向・角度から物事を考える人々と交わるのは大いに結構なことだ。


話は些か飛ぶが。
巷の地蔵堂の石柱等にはよく
『見てござる』
という文字が彫られている。
そして、森永エンゼルパイだったか、大昔、
『♪だあれもいないと思っていても どこかにどこかにエンゼルが』
てなCMソングもあった。

いずれも、
「神仏てか超越者てか、とにかくそういう存在がお前さんを見守っていますぞえ」
といった大らかな意味を持つ言葉なのだろうが、一方、
「誰も見ていなくたって天には眼がある、自分の姿を正さねばいかんぞよ」
このようなゾゾゾもんの意味もあるように感じる。

春先の日曜早朝、強風に煽られ駐輪場の自転車がドミノ倒しのような状態になっており、
かなりの台数であるそれを一人の青年が淡々とした表情で立て直していた。
慌てて駆け寄り手伝ったのだが、心の底からありがとうと思った。
自転車を立て直してくれたことに対してだけではない。
私一人で倒れた自転車群を発見したんだったらやらなかったかもしれないからだ。
そういう恥ずかしい自分に気付かせてくれたからだ。

宗教や信仰云々に関係なく、黙って他人の役に立てる人はいる。
ぼんくらながらハッとしてGoodでそれに続かねばと教えられる者も出てくる。
小さな出来事だろうと、これこそが道を説くってことであり、真の布“教”なのではないか。

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励まし屋

体調が悪い。
ってことで、相変わらず駄目主婦だ…とか人並に落ち込んでみようと思ったものの、
それらしく溜息ついた端からぺろり舌を出したりするのであった。
私ゃとことん自分が可愛い、何で態々おのれをいじめねばならんのだ、馬鹿馬鹿しい。

ただ、一応神妙な風を装うこともある。
励まし屋さんに対するときなどがそうだ。
凹んでいないかと訊かれたら、凹んでいない限り凹んでいないと答えるのが普通なのに、
励まし屋さんの場合は相手が思いの外凹んでいないと見るや、
「いろいろあって悩んじゃうよねえ」
と、情けない現状への自覚を促してくれるため、あまり明るい顔をするのはまずい。
他を気にかけてやっている之図ってのが大好きなのでへらへらしているとうるさいのだ。

大体、励まし屋さんってのは平生でもやたら心配してるわメールを下さる。
で、こっちが元気である旨返信すると、元気なだけではいけないようで
「気を引き締めていかなきゃね」
「浮かれていないでがんばろうね」
と、無理にでも励ましの形をとった返信がまた来る。
御自分のお言葉のありがたみを信じきっておられるのであろう。

どうでもいいけど悩める他人の姿を期待するのはやめてもらいたいものだ。

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親子喧嘩

あるお母さんのブログに親子喧嘩のひとこまが描かれていた。
温かな家庭で朗らかに育った娘さんだってことは日頃の文章から楽しく伝わってくるが、
生意気盛りの中学三年生、ともすれば口のきき方が些か横柄になるといった年頃だ。
冷静に大人の対応ができず、ついまともにやりあってしまう、と飾らず述べておられ、
「うんうん、そうなんだよなあ」
と、画面に向かって何度も頷いてしまった。

うちなんか子どもが高三になったというのに未だガーガー罵り合っていたりするのだが、
やはり中二から中三の頃が最も派手で、
「いちいち反抗するためにもりもりメシ食っとんのかこの野郎」
てな思いの毎日だった。
ぼうずにしてみりゃ、
「いちいちごちゃごちゃ言うために息しとんのかボケ」
だったろう。

私の場合は即効性を求めてしまうから喧嘩になるのかもしれない。
待ったなし、今わからせねばならない、という気持ちが強過ぎるのだ。
で、子どもは何だか支配されているように感じ、ますます反発する。
たまにずいぶん前の小言に対し、
「あれは俺も悪かった」
とか、
「先生にも同じことを言われてもうた」
ともらすことがあるけれど、きっと親にしかぶつけられぬ苛立ちってのがあるんだろうし、
他人にぶつけるようなことがあっちゃならんわけで、もっと落ち着いて話しゃよかった、と、
反省することも間々ある。
即効性を求めた自分自身が後になってから気付いてりゃ世話ないわな。

ただ、親が子どもの機嫌取りをするのって、やっぱりちょっと変だ。
それに、喧嘩になるからには子どももまた親の顔色を窺ってばかりの奴じゃないってこと、
苦しい言い訳だが、カラリ後をひかぬ喧嘩なら日々の薬味やじぇ、とか開き直ってみる。

ついこの間も、

「ようもまあそんな雑言をっ、親にかてここまでひどいことを言われた覚えはない!」
矛盾してんだかそうでないんだか不明な言葉をヤケクソでわめき、ぼうずに
「なにをいきなり拗ねた子どもになっとんのや、きっしょっ!」
と返されて、おとんの失笑までも買ったのだった。

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続・そう思っとるのはおまえだけ

私は一度悪口を言い出すと次から次へ、てな傾向があるようだ。
前世では浅香光代と親子だったのかもしれない。

まあしかし、前項のようなうざい人というのは、うざいだけで済む分まだましなのだろう。
それに、こっちがうざく感じる相手ってのは、大抵こっちのことも良くは思っていない。
たとえ負の意味にしろ互いに似た感情を持てるという点では気が合っているわけで、
次第に交わりもなくなるため大きなトラブルは避けられる。

では、最も厄介なのはどんな相手か。
関係妄想癖のある人間だと私は思う。
他人の発言や表情、動作等を何でもかんでも自分に関係づけて考えちゃう、ってやつ。

むろん、物事を自分に結びつけて考えること自体は誰でもフツーにやっているはずだ。
あっしにゃ関わりのないことで…のみでは個々の生活もひいては世の中も回っていかぬ。
だが、全く違う方角を向いて話してんのに自分のことを指していると自ら名乗りを上げ、
怒ったり悲しんだり騒ぎたてたりする人ってのはどもならん、珍種のオレオレ詐欺か。

また、突っ込んだ話をする間柄でもないのに
「わかってるって」
と、一人で納得し、胸中を見透かしたみたいな態度を取る人も同様だ。
挙句の果てには週刊誌の『事情通』よろしく周囲へ誤ったことを吹聴するから大迷惑。

さほど誼のない人のことって、その姿勢や言に感銘を受ける又は好感、親近感を抱くか、
逆にひどく嫌悪感を持つかでない限り、ついでに思い出す程度にしか浮かばないものだ。
関係妄想癖のある人間は、自分じゃ繊細な神経の持ち主だと言っていることが多いが、
その実、常に大勢の注目を浴びているという厚かましい自信に満ちた強か者であり、
人と人との間に割り込んでは妨害電波を発していく厄病神なのである。

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そう思っとるのはおまえだけ

体調がいまいちであまりPCにさわれず放置状態となってしまった。
ま、自己満足のために細々と続けていこう。

ってことで。

高校生の頃、男子を中心にいっとき
【そう思っとるのはおまえだけ】
という言葉がプチ流行語になった。

文字にするとえらく乱暴な物言いのように感じられるが、実際はさほどでもない。
誰かが自意識過剰臭の強い発言をしたり、ここで言うかっぽいずれた正論を吐いたりし、
何となく空気が固まっちゃった際になされる換気的な意味合いの声掛けとでも言おうか。
むしろ自らそう言われるよう仕向け、お約束通り皆で一斉に突っ込みどっと沸くといった、
ウケ狙いのお笑い色が濃い言葉であった。

馬鹿馬鹿しくも懐かしい思い出だが、この言葉は存外私に大きな影響を与えたようだ。
ある人にとっては大切だったとしても、自分にとってみればどうでもいいで済んじゃう、
そんな事柄は当たり前に存在する。
逆も然りだ。
(但し社会常識や倫理に関わる事柄はまた別の話)

ところが、他の『どうでもいい』を許さぬ人種てのもいるわけで、そんなのに出くわす度、
四十女になった今でも

【そう思っとるのはおまえだけ】
胸中秘かに突っ込んでしまうのである。

そりゃ当然、表向きは一応四十女らしく、
「えっと、そういう面には暗くて」
とか、
「あまり考えたことがなかったんで」
と、本当は『どうでもいい』と返したいところを丁寧に言い換えている。

にも関わらず、
「そんないいかげんなことでいいの?」
いきなり熱く御指導御鞭撻を始めたり、
「何だか傷ついたわ」
自己を否定されたとばかりにじめじめ嘆かれたりすることもあり、頭が痛くなる。
それが何故か自称曲がったことの嫌いな人・自称感受性豊かな人にありがちなんで、
余計にこっちの顔が赧らむようなやりきれなさを感じる。

そう、まるでなかなか遠くへ去ってくれぬ鬱陶しい選挙カーみたいだ。
しかも、いつの間にか
「これは大切なことであります」
ではなく、
「私は重んじられて当然の大切な存在であります」
という連呼にすり替わってんのな。

勿論、自分だけが思う大切な事柄であっても、それを発信するのは大いに結構、
様々な考えに触れられるのは有難いし、私とてしょうもないことを叫びたい。
が、ごちゃごちゃといちゃもんつけてやりにくくしてくれちゃうのも、上記の
【そう思っとるのはおまえだけ】
風味あふれる人々だったりするから困る。

ちょっと横に逸れるが。
魅力的な方々の姿勢を拝見していると、発言の際にやはり一旦、
「こう思うのは自分だけかもしれない」
という羞恥をくぐらせたその上でさっぱりと言い切っておられるように見受けられるし、
一方で、
「一人が思うことなど既に多くの人が思っていることなのだ」
と、殊更に奇を衒ったりせぬ清々しさも感じられる。

皆が同じ思いだ的代表者面とも、逆に一味違うジブン的特別なヒト面とも無縁だ。

元に戻って。
とにかく『どうでもいい』ってのも一つの意なんだから、それはそれで仕方ないのである。
また、『どうでもいいこと』という面から他の考えを知るてな接し方だってあるのだ。
『大切なこと』ってのは大切なだけに何やら深遠な背景がありそうで小難しいが、
『どうでもいいこと』ってのはわかり易いではないか。

かつて
【そう思っとるのはおまえだけ】
が笑える言葉として流行ったのも、裏側に容認のやさしみを含んでいたからであろう。
現在のおのれの呟きに『チッ』という意味しかないことは我ながら痛い。

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