ボンクラ主婦きすけの気ままな日記
ずいぶん前のことだが。
あるローカル番組で『主婦にぴったり、エッセイを書こう』てな特集をやっていた。
実際にエッセイ教室で指導しているという女性講師が、
「普段から文章の行間を読む習慣をつけることが大事です」
とカメラに向かってアドバイス。

エッセイどころか品のない日記を書くのが精々の主婦ながら、これには首を傾げた。
文章の行間を読むってあんた、作者が文に表した意をこそきっちり追うべきではないか、
行の間はただ白いだけ、何も読まないのと一緒だ。
古典文学などは婉曲な仄めかしも多いが、それでも作者の思惟は言葉として在る。
行間なんて読者が勝手に埋めちゃうもの、謂わば読者側の想像や自己投影に過ぎぬ。

まあ、無理矢理好意的に解釈すれば、上記の先生はエッセイ入門者の心構えとして、

とりあえずは受け身の立場から一歩前に出ようと言いたかったのかもしれない。
また、単純に“読む”ということのみに限って考えると、極めて私的な行間塗装、例えば、
神林東吾や髪結い伊三次に原田龍二の顔を当て嵌めて読んじゃう等の強引な作業も、
読書の二次的な愉しみ方としてはアリだと思う、堂々と言えば恥をかくだけで。

しかし、この『行間を読む』という、何だかちょっと奥深そうでかっこよさげな言葉自体も、
ネット等文章でやりとりをする場において堂々と言えば、やはり恥をかくことになろう。
他に対する独りよがりな思い込みや偏狭な曲解を正当化するに等しい表現だからだ。

実際がとこ、『行間を読む』という妙な言葉は何故か、文に書いてある意をすっ飛ばし、
文にない意ばかり邪推して、難癖つけたり被害者面で嘆いたり先輩風を吹かせたりする、当たり屋みたいな人間を連想させる。
また以前、私の文の行間を読んでくれなどと不思議な要求をする人に出くわし驚いたが、
図々しいにも程がある、わかってほしい意があるなら普通は文に示すだろ。
そんなに勿体をつけたいんだったら江原啓之でも呼べ。

『行間を読む』という、それこそ本の栞代わりに心霊写真を挟むが如き眉唾な言葉など、
一日も早く死語になってくれることを願う。
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