茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

ジンセイ

雨の土曜。
おとんは急な仕事で得意先へ、ぼうずは学校へと、相次いでどたばた出かけて行った。

「行ってらっしゃい、気ぃつけてなあ」
常の如く見送ると、
「ん、行ってくるワ」
常の如くどっちも同じ言葉を返し、どっちもエレベーターには乗らず階段へと向かい、
どっちも踊り場の壁に姿が遮られる直前、背中のまんまかるく左手を挙げ、降りてゆく。
なるほどなあ、父子やなあ、と変に感心。

私に人生なんか語れるわけはない。
が、たまに、人生とはこういう小景の積み重ねなんかもしれんなあ、と思うときがある。
そしてじんわりとありがたさを感じる。


その午後。
結構本降りになってきたし、晩御飯の買物に行くのもめんどいぞ、と、在庫を確認したら、
ストックケースの中に『すし太郎』を発見。
突然、暇人の脳裏に古い映像がよみがえる。

当時私は二十代前半だったろうか、まだ『紅白歌合戦』も『日本レコード大賞』も、
権威の低下を騒がれる程度には世間の関心を集めていた時代の或る大晦日、
北島三郎が暴力団の宴会に出席したとかでいずれも出場を辞退したことがあった。
NHKは急遽代役を立てたが、レコ大のほうは北島の『北の漁場』が最優秀歌唱賞に。

重苦しい空気が流れる受賞者不在の壇上で司会の森本毅郎が、
「我々は北島三郎及び『北の漁場』という素晴らしい歌手・優れた楽曲に敬意を表し、
 
最優秀歌唱賞を授与するものであります」
沈鬱な中にも協会は正当に評価してんだぜちょっといい話だろ臭漂う表情でそう告げ、
画面はCMに切り換わった。

と、次の瞬間、
「♪ちぃ~らしぃ~ずしぃならぁあ このぉ~すしたンろぉ~」
なんと、ハチマキもいなせな職人姿の当人が軽快に歌いながら登場。
咄嗟には事が理解できず、トボーンと呆けたような心地で北島の鼻の穴を見つめた。
結局、森本の感動的な台詞も水泡に帰したのだが、私はあまりの間の悪さに対し、
むしろ大きな感動を覚えたのであった。

で。
再び、人生とはこういうしょむない記憶の積み重ねなんかもしれんなあ、と思ったりした。
それで笑えることにもじんわりとありがたさを感じる。

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まだ大丈夫

母の日、ぼうずに
「おい、何か欲しいもんってあるか?」
と訊かれたので、
「カネ」
清々しく即答したら、
「ぜってーそう言うと思った」
しっかり馬鹿にされた。
ちっ、どうせ月末近くになったら小遣いが無くなったとおとんに小銭をたかるんだろが。
最初から何も買わんでよろし。

プレゼントには関係なく。
実はちょっと前、欲しいものがあった。
これとこれ。
湯呑1
湯呑2
国道沿いの鄙びたドライブインや田舎の集会所・お寺社などでお馴染みの湯呑ながら、
最近あまり見かけなくなったため、個人のレッドデータブックに記載したのだが…

「何や、こっちの水玉のは毎日会社の会議室で使っとるやつやないか。
 
それにこの変な顔の小坊主(唐子と言ってくれ)ががちゃがちゃしとる湯呑やったら、
 
ばあやんの納屋に腐るほどあるでー」
画像を見たおとんが事もなげに言う。

まだそう買い急ぐ必要はなさそうだ。

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行の間は白い

ずいぶん前のことだが。
あるローカル番組で『主婦にぴったり、エッセイを書こう』てな特集をやっていた。
実際にエッセイ教室で指導しているという女性講師が、
「普段から文章の行間を読む習慣をつけることが大事です」
とカメラに向かってアドバイス。

エッセイどころか品のない日記を書くのが精々の主婦ながら、これには首を傾げた。
文章の行間を読むってあんた、作者が文に表した意をこそきっちり追うべきではないか、
行の間はただ白いだけ、何も読まないのと一緒だ。
古典文学などは婉曲な仄めかしも多いが、それでも作者の思惟は言葉として在る。
行間なんて読者が勝手に埋めちゃうもの、謂わば読者側の想像や自己投影に過ぎぬ。

まあ、無理矢理好意的に解釈すれば、上記の先生はエッセイ入門者の心構えとして、

とりあえずは受け身の立場から一歩前に出ようと言いたかったのかもしれない。
また、単純に“読む”ということのみに限って考えると、極めて私的な行間塗装、例えば、
神林東吾や髪結い伊三次に原田龍二の顔を当て嵌めて読んじゃう等の強引な作業も、
読書の二次的な愉しみ方としてはアリだと思う、堂々と言えば恥をかくだけで。

しかし、この『行間を読む』という、何だかちょっと奥深そうでかっこよさげな言葉自体も、
ネット等文章でやりとりをする場において堂々と言えば、やはり恥をかくことになろう。
他に対する独りよがりな思い込みや偏狭な曲解を正当化するに等しい表現だからだ。

実際がとこ、『行間を読む』という妙な言葉は何故か、文に書いてある意をすっ飛ばし、
文にない意ばかり邪推して、難癖つけたり被害者面で嘆いたり先輩風を吹かせたりする、
当たり屋みたいな人間を連想させる。
また以前、私の文の行間を読んでくれなどと不思議な要求をする人に出くわし驚いたが、
図々しいにも程がある、わかってほしい意があるなら普通は文に示すだろ。
そんなに勿体をつけたいんだったら江原啓之でも呼べ。

『行間を読む』という、それこそ本の栞代わりに心霊写真を挟むが如き眉唾な言葉など、
一日も早く死語になってくれることを願う。

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眼福

月曜の午後八時四十五分過ぎ。
いつものように助さんの
「頭が高い、控えおろう!」
にへらへらとしていたら、ちょうどそこへ帰って来たぼうずが冷ややかな一言。

「キムタクやもこみちや玉木みたいにいかにもおばはんが騒ぎそうなタイプならわかるが、
 あんたって何やしらん微妙な芸能人ばっか好きだよなあ」
やかましい、ストライクな顔が原田龍二なんだから仕方がないではないか。

眼福眼福と呟きつつ観る『水戸黄門』は、梅こぶ茶の味わいである。

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ネットコジュウト

退院してからこっち、暇さえあればグースカ寝てばかりいたため頭がボケボケ。
また弁当作りも再開したことだし、だんだん通常モードに戻るわさ。

さて。
一昨晩、頂いたコメントへのレスを打つ際、何かしらもやもやするものを感じた。
勿論、コメントを下さった不幸中の幸いさま及びそのコメント内容とは一切無関係で、
元々自身の中に在った私的な蟠りに過ぎないのだが、この機会に一寸まとめておこう。

当ブログは主に日常生活の中でわいた雑駁な思いをせこせこ書き留める日記であり、
特に断りのない限り掲示板他ネット上の出来事を取り上げてはいない。
結果的には重なり合う部分が生じたとしても、重なり合っているだけで本来は別の円、
一緒くたにしているわけではないのだ。
但し、重なり合っているだけにその部分のみ濃く浮き上がって見えてしまうのも事実で、
読む人の事情によってはネット上の事柄てな受け取り方になるときもあろう。

ここで、
『書く側と読む側の意図が一致しないのは当然である』
と主観を客観視してみれば、仮に表面的・一時的には齟齬があるように映ったとしても、
実際のところは何の支障にもならない。
掲示板等には紙に書いた文字を唱えるが如く理解理解と他に詰め寄る人が付きもので、
そんな人こそ『意図の不一致は当然』という前提的な理解を放棄していると思うのだが、
ブログはその辺りを明確にし易いので実にラク。
ま、ぺたり平たく言っちゃえば、他人の受け取り方の責任を私に問われたって知るか、
ってだけの話なんだけどさ。
(少し前の幸田來未・羊水腐る発言騒動だって同じことだ、いちいち喚きたがる奴は、
まず自分の脳味噌が腐っていないかどうかを疑え)

しかし。
根本的には単純な勘違いに過ぎなくとも、掲示板等他とのやりとりを目的とした場では、
これが釦の掛け違いとなって面倒なことへと発展してゆく場合も多い。
個々に自意識を加減できれば大した問題にならないが、如何せん、ネットの繋がりとは、
自意識に基づいた人格の繋がりとも言えるため、他に対する憶測もひとり歩きしてしまう。

掲示板等でよく見かける、他を誹謗したり揶揄することでしか自論を述べられぬ人々、
いや、自論がないからこそ他の言に絡みつくことでしか自分の存在を示せぬ人々は、
チンケな自己満足のため故意に釦を掛け違えて空騒ぎしているつまんねえ人種だ。
が、本当に怖いのは、一人歩きした憶測を誠実さにすり替えて存在を示す人だと思う。
下手すると、公開の場だけでなくメールを使って説教したりお節介を焼いたりすることで、
ネットからの触手により現実的なストレスをもたらして下さる有難い人も出てきたりして、
げっそりさせられる破目になる。

ネットは日常生活に溶け込んでいるが、ネットを日常生活の形代にできるわけじゃない。
ネットでコジュウト(小舅・小姑両方ね)になっちゃう人は、それがわからぬ馬鹿である。

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とりあえず

家はやっぱりよろしわあ、あーのびのび。

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