以前、『きすけはぁ』という題で、“おかあさん”を連発する自分に気付き、
人のことは言えぬものだと恥ずかしくなった、てなことを書いたが、
リバーシブルのもう一面みたいな話をひとくさり。
赤子を抱くと、自然に愛称が口をついて出る。
そして、そのまま定着する。
仮に『鈴木一朗』という氏名だとして、“いーくん”とか“いっちゃん”とか、
まあよくあるそんな呼びかけかたでずっとぼうずに接してきた。
多くの家庭は似たり寄ったりなのではないか。
何を思うこともなく、当たり前のように時が過ぎていった。
ところが、中学に入ってすぐ、ぼうずはその呼びかけかたをやたら厭うようになった。
元々家の外に出た際は、本人の前でも、また親どうしの会話の中でも、
妙な溺愛色を帯びぬよう“一朗”としていたのだが、家庭内でさえもやめよと主張する。
幼時には自ら、
「おかーさん、“いーくん”ね、今日先生にいっぱいほめられたんやで」
などとにこにこ話す可愛らしい坊やだったんざますのよ。
そんなおめえはいってえどこへ行っちまったんでい、ちきしょう。
内心の忌々しさはさておき、反抗も成長の証と“くん・ちゃん”呼びは避け、
“一朗”でいくよう心がけたのだが、習慣とはなかなか抜けないもので、
「きっしょいて言うとるやんか!」
「やかましわ、いい若いもんがいちいち長老みたいに目ぇ光らすな」
と、アホらしい喧嘩の繰り返し。
ただ、高校生になってからは、稀についぽろっと“くん・ちゃん”呼びが出ても、
ゴーヤを食ったときのような渋い顔をするだけであまり苦情を言わなくなった。
が、先日、友人と電話中であることに気付かず大声でやらかしたため、
久々に非難された。
それならってんで、以来新たに“鈴木うじ”と呼ぶことにしている。
「どこまでも嫌味な人間やな」
と苦笑しつつも、骨董的な滑稽味を感じたのか、今のところ放置の方向だ。
最近FUNKY MONKEY BABYSの『ちっぽけな勇気』が気に入っているようで、
頻繁に聴いているぼうず。
素直で衒いのないあの曲は、私も大好きだ。
自分が高校二年生だった頃の気持ちを記憶の中から取り出そうとしても、
まず黴や紙魚の痕だけでうんざりするのだが、音楽というものはありがたい。
少年よ、青臭く抗いながらも何かを掴んでくれい、てな気分になってくるのだ。