茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

京本政樹を持ち上げる

歳を取るに従い、どうも癖のある人間に惹かれる傾向が出てきた。
京本政樹もその一人だ。
あのゴージャスな胡散臭さと堂々とした自分大好きっぷりが堪らなくいい。

 
“組紐屋の竜”で脚光を浴びた当時も確かに美麗な男ではあったのだが、
キワモノ的な印象ばかりが強く、才能は特に評価されなかった。
が、三十代半ば辺りから、狂気も可愛げもくどさも薄っぺらさも自在に扱う、
本体内部の充実した俳優としてのし上がってきた。

実際、京本政樹は物凄い実力の持ち主ではないかと思う。
あれだけアクの強い、一種浮いた存在感を派手に主張しながら、
周囲の演技を殺すどころかむしろ個性を引き出しているようにさえ見える。
話術も然りで、トーク番組などでもぐいぐいマイ・ワールドを展開する一方、
巧みにその場を統合し、視聴者を飽きさせない。
五十近いおっさんとは思えぬ容姿と相俟って、人物そのものの魅力が光る。

今や特異な裏大物感を漂わせている京本政樹だが、何故なんだろう、
不思議にこれまた大好きな竹中直人と共通した繊細さも感じるのである。

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無知

性悪な無恥っぷりを露呈するような日記ばかりセコセコ書いている私だが、
脳悪な無知っぷりも負けず劣らず、勿論PC関係とて例外ではない。

遡ること五年前、初めてのPC (OS:XP)を迎えたときは全部業者さん任せ。
お茶など何度か淹れかえて出しつつぽかーんと見ているうちに、
Outlook Express
IEのトップページまでもちょちょいと設定してくれ、
セキュリティソフトを入れて、
「はい、これですぐに使えますよ」
実際、何もわからぬままにメールやネットの閲覧だけはできたのだった。

当然、長い間にはトラブル無しに済む筈もなく、リカバリ等を経験するうち、
ごくごく基礎的な事柄だけはどうにか…程度のゆるーい進歩はしたものの、
その初代が寿命となり、春先に新しいPC(OS:Vista)を購入した際、
えらくうろたえてしまった。

Outlook Expressがあらへんやんか!」
ということである。

が、物事を深く考えぬ奴。
Vista
は諸々の機能を一本化し、利便性を向上させているのだと思い込み、
XP
の時は無用の長物だったOutlookでメールをやりとりしていた。
予定表だの仕事管理だの宝の持ち腐れもいいとこだなあと呟きながら。

そう、Outlook Express Windows mailという名称に変わっただけなのに、
三か月も気付かず過ごしてきたのである。
昨日ようやくあれま、となり、一人大笑いしていた、きしょいな。

こうして色んな意味でめでたくWindows mailを使い始めたのだが、
ぼうずの携帯にテスト送信したメールが何故かOutlookのほうへと移り、
そこから再び送信するという二度手間状態に。
どうせまた根本的なところでアホやってんだろうなとあちこち検索したら、
以下の方法でうまくいくとのこと、なるほど、解決した。
言われてみりゃ単純な話でも、ばばあにとってはまず気付くまでが大ごと。
一応覚え書きとして残しておこう。


Windows mailからの送信がOutlookに送信される場合の対処法

コントロールパネル→ネットワークとインターネット→インターネットオプション
→インターネットのプロパティが開く
 「プログラム」タブから「プログラムの設定」を開く
 →「プログラムのアクセスとコンピュータの規定の設定」から
  「Microsoft Windows」を開く
  →「Windows mail」を選択、OKを押す


それにつけても、就職面接を受ける以前に年齢でふるい落とされる理由が、
ものすごーくよくわかる気がする。
ま、若い頃からトロかったけどね。

さて、めげずにハロワ行ってこ。

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善の木に咲く臭い花

大昔の流行歌『再会』(松尾和子)に、
「みんなは悪い人だと言うが わたしにゃいつもいい人だった」
というフレーズがある。

TV
東京の系列局が変な時間に投げやりな感じで再放送する古いドラマ
・・・・行き交うクルマの悉くがドアミラーでなくフェンダーミラーだったり、
玉のれんの向こうで鳴りだす電話に小花模様のカバーがかかってたり、
妙に若い小野寺昭が何故か今と変わらぬ野村昭子に町の噂を訊いてたり、
蟹江敬三や石橋蓮司が味のあるいいおじさんじゃなく組員だったりする・・・・
においても、同様の台詞は時折出てくる。

「みんなは悪い人だと言うが わたしにゃいつもいい人だった」
ストックホルム症候群を思わせる心情でもあるが、それは脇へ置いとく。
人質というドラマチックな非常事態に陥ることはまずないだろうし。


実際に日常生活の中で困るのは、むしろ逆の場合である。
ひろく善人と認められているのだが自分には合わぬ、そんな人と関わると、
非常にストレスが溜まる。

私はお節介な人が大の苦手だ。
これまた古いドラマや漫画などでお馴染みの
「あなたのこと、ほっとけないのよ」
てな世界を臆面もなく繰り広げられちゃうとうんざりする。
ほっといてくれれば済む問題なのに些細な言葉や表情から想像を膨らませ、
他人の心を汲んだつもりで得々と的外れな言動を重ね…。
元の問題よりその人が発生させる渦に巻き込まれる方が苦痛となってくる。

しかし、お節介な人とは、言い換えればサービス精神旺盛な善人でもある。
悪意により腹立たしい思いをさせられたなら文句の一つも言えようが、
「あなたのためを思って…」
という善意の結果であるならば黙り込むしかない。

あなたのためを思ってのアドバイス→審査員気取りの他者分析。
あなたのためを思っての心を引き立てる明るい冗談→無神経なおちょくり。
あなたのためを思っての周囲への働きかけ→裏話のばらまき。
正直私にはこのようにしか感じられないのだが、むっとした顔を見せれば、
「私の気持ちはわかってくれてると思うけど、気に障ったらごめんなさい」
と、反対に友情や度量を問うかのような言葉で不満にストップをかける。

また、善人は社交性に富むため、私の数少ない知己殆どと交友を持つ。
波風立てて“人の真心を素直に受け取れぬ奴”という評が広まるのも癪だし、
自己の体面を保つべく心ならずもお節介に対し感謝の意を述べるのだが、
返される満足げな笑顔に余計苛々が募る。

こうした精神衛生上宜しくない生活をいつまでも続けられるわけがない。
ついには狷介な本性を現し、結局、折角の人の和も輪も自ら手放してしまう。
私とて折々に自分のケツの穴の小ささを恥じることもあるが、
自己嫌悪という倒錯した自慰行為に耽るくらいならケツ捲って逃げるわえ。
それにしても下関係ワードばっかだなおい。

おのれの善を信じて疑わぬ人は、ある意味悪人以上に厄介な存在だ。
下戸にイッキ飲みを強いるが如き行為を軽いノリでやってのける。

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長い長い影  栽監督追想

沖縄では早くも16日、夏の甲子園に向けて高校野球の県大会が開幕。
ふと、先月死去した沖縄水産高・栽監督の姿が浮かんだ。


昭和50年代、沖縄は既に高校野球の強豪県となっていた。
にも関わらず、人々はその代表へ地元や故郷の代表に対する情とは別の、
一種判官贔屓的な祈りに近い応援を寄せているように見受けられた。
私にとっても、甲子園に躍る沖縄代表の選手たちのプレーは、
近現代の沖縄の歴史を無意識に想起させるドラマであった気がする。
そして、栽監督はそういった沖縄の高校野球を象徴する人だった。


記憶には赤嶺、石嶺ら豊見城高監督当時に活躍した選手の顔も残るが、
栽監督と言えばやはり沖縄水産高を率いた将という印象が強い。
監督の風貌と共に、幾度となく流れた同高の校歌をも私はいつしか覚えた。

あの校歌はいつ作られたものだろう。
作詞者の山城正忠は與謝野鐵幹に師事した著名な歌人とのことゆえ、
或いは戦前の沖縄県立水産学校時代にまで遡るのかもしれない。
なるほど、どこか鐵幹のますらおぶりに通じる意気高さが好ましい詞だが、
正直なところ、初めに聴いたときはどきりとした。
「鳴りてし止まぬこの腕 揮う我らの独壇場ぞ」
という一節に、落下傘部隊をモデルとした軍歌・『空の神兵』の
「撃ちてし止まぬ 大和魂…」
を思い出してしまったからだ。
勿論突拍子もない連想で、こじつけめいたことをと我乍ら恥ずかしくなったが、
先程述べた、沖縄の歴史への無意識な想起がここにも表れていたようだ。


昭和33年、沖縄勢で初めて甲子園に出場した首里高の選手たちが、
球場の土を持ち帰ったものの、沖縄はまだ米国の統治下にあったため、
植物検疫法の壁により泣く泣く船中から海へ捨てたという出来事は、
高校野球ファンの多くが知るところである。
当時、栽監督は糸満高の球児だった。
「甲子園で優勝しなければ沖縄の戦後は終わらない」
栽監督の口癖だったというこの言葉の意は高校時代に端を発した、
穿った観方かもしれないが、そう考えてもさほど不自然ではなかろう。


昨夏の甲子園決勝、早実・斎藤投手と駒苫・田中投手の物凄い投げ合いは、
いつまでも語り継がれる名勝負に違いないが、一方不穏な胸騒ぎを覚えた。
二人の顔に平成3年夏の準優勝投手・沖水高エース大野倫の顔が重なり、
何とも遣り切れない思いがよみがえったのである。
引き分け再試合となった瞬間、明日から当分強雨になってくれ、と叫んだ。

大野“投手”はあの大会の苛酷な連投により肘を壊した。
栽監督には四連戦の完投がどんな結果を招くか十分わかっていた筈である。
投球の合間、痛みに顔を歪めながらも気丈な笑みを見せた有望投手は、
「甲子園で優勝しなければ沖縄の戦後は終わらない」
という栽監督の悲願を背負うことで投手生命を断たれた。
そう、これも一面の重い真実だ。
だが、指導者である栽監督個人の過失と言い切ってしまえぬ長い長い影が、
そこには色濃く横たわっている。

非凡な力を持つ大野倫は大学で強打者となり、“野手”として巨人入りする。
のちにダイエーへ移り、現在は母校九州共立大の職員となっているそうだ。
栽監督の訃報に際し、彼はただただ惜しみ悼む感謝の言葉のみを述べた。
その新聞記事に触れ、私は再び栽監督に心の内で名将の称号を添えた。

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良順先生の足あと (終)

その夜。
春に校長室で撮影した数枚の写真をあらためて文机に並べた。
かつて金色に輝いていたであろう表装はまだらに剥げているものの、
ぴんと背筋を伸ばしたかの如く端正な筆である。

と、かなりぶれてしまい殆ど顧みなかった一枚がはらり畳に落ちた。
ぞんざいに拾い上げて隅へ戻すと、
「あれ?」
向かって左側の枠にしみとも影ともつかぬ点のようなものが。
作り話臭い流れだが、本当のことだから不思議だ。
良く撮れた写真では何も見えない。

翌日、小学校へすっ飛んで行った。
お盆過ぎのしーんとした校庭で見回りをしていた校長先生をつかまえ、
またもずかずかと校長室へ普段は授業参観でさえどうも苦手なのに、
一体この度胸はどこから出てくるんだろう、身勝手なだけか。

驚いたことに、以前は雑然としていた棚の上がきれいに整頓され、
扁額がすっきりと姿を現している。
「ようわからんまんまで過ぎてしもて申し訳ないんですけど、
 あれからえらい気になったもんで片付けときました」
校長先生は首に巻いたタオルの端で汗を拭き拭きおっしゃった。

その言葉に深く頭を下げ、折り畳み椅子の上に乗って扁額に向かう。
ハンカチでそーっと枠をなでると、
『 寄贈 ××××× 』
当時の○△製薬御当主の名前がうっすらと記されていた。
ああ、やっぱり

それがわかって何になるかと言えば、何にもならない。
土地の仁者の縁により、松本良順が揮毫を残したというだけの話だ。
だが、片田舎の小さな尋常小学校のために筆を執る醇厚な人柄は、
小説・伝記とぴたり重なり合うようで、胸が熱くなった。

その額を眺める年寄りじみた子どもなどいやしなくても、
その額は校長室の壁から見晴らしの良くなった窓の外を眺めるだろう。
新学期になれば、校庭はまた子どもたちの賑やかな声でいっぱいになる。

昨夕の帰り道、西日にたちのぼる草いきれの中で幻のように浮かんだ、
良順先生の足あとが、ただただ慕わしかった。

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良順先生の足あと (3)

声をかけて下さったのは、創業者一族の奥さんだった。
例の如く子どもが夏休みの宿題で…”ともごもご事情を話したところ、
いともあっさりと工場の反対側にあるお邸の方へ案内して下さり、恐縮。

樹木の茂るそこには、地方財閥だった当事の空気がひっそりと沈んでいた。
昭和の戦火で甚大な被害を蒙ったものの、二条関白直筆の免許状を始め、
庭園の松を愛でに度々来遊したと言う貫名海屋が残した書幅、
十八代当主と親しかった東郷平八郎が手ずから刻し贈った円形の篆額、
近いものでは風雅な離れで三木武夫がしたためていった書額等々、
貴重な品々が邸内のあちこちに当たり前のような顔で溶け込んでいる。
場違いな母子はトボーンと呆気にとられるばかりだ。

奥さんは、明治・大正の頃の広告が一部残っていた筈、と書庫の鍵を開け、
コピー機にかけて惜しげもなく提供して下さったのだが、
特に目を惹く刷物=軽い会釈の形で向い合う正装の紳士淑女を中央に、
モダンな意匠を凝らしてある=を渡す際、さらりおっしゃった。
「これはね、今でも胃腸薬として少し処方を変えて作ってるんやけど、
 元々は性病の症状を抑える薬やったそうなんよ。
 明治の中頃、松本良順が滞在したとき、処方を伝えていかれたんやて」

「ひゃっ!!」
私は興奮のあまり素っ頓狂な声を上げてしまった。
「こちらは良順先生と親交があったんですかっ!」
「ええ、老境に入ってから何度か滞在されたようなことは聞いてます」
実は斯々然々と、小学校の校名額について話したところ、
「うちのつてで、というならご本人なんやろけど
残念ながらその事柄についての記録は残っていないそうだ。

あれやこれやお世話になり、お邸を後にした。
家へ帰る道すがら、
「良順先生があたしらの町に来たってだけで、おかあさんは嬉しいなあ」
「うん、もしかしたらこの道を歩いとったかもしれへんよ」
「前に市史・地方史やら産業史やら躍起になって調べたのに、
 良順先生とは掠りもせんかったわ。
 確証はないけどあの額は○△製薬さんのご縁で書かれたんやろね」
「そや、きっとここの子らがかしこなるようにて書いてくれたんやで」
まだ母親を喜ばせてやろうという可愛げがあった(ははは)子どもと、
そんなことを言い合い、西日に手をかざしつつ逃げ水を追うような心地で歩く。

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良順先生の足あと (2)

数か月が過ぎ、盛夏となった。

クソ暑い中、さらに体感温度を上げるのが夏休みの自由研究である。
当地の小学校の課題は十年一日の如く『郷土について』。
「結構なこっちゃ、郷土を辞書で引いて書き写しときゃ一行で済む」
こちらも毎年同じ毒口を叩いたものだが、幅を持たせたつもりでも、
小学生にとってこれほどつかみどころのないお題はなかろう。

学校からの説明プリントに
「おうちのかたとよく話し合ってとりくみましょう」
ちゃっかりこう明記してあるのも何だか小面憎い。
要するに、親が手伝ってちゃんとやってね、ってことなのだ。

我が市には、酒・酢・味噌・醤油の醸造元や工芸品の製作所等、
小規模ながらも由緒ある老舗が点在している。
子どもと相談(殆ど誘導)した結果、それらを自らの足で訪ねて回り、
『ぼくの町の歴史あるお店』というテーマでまとめようぜ、となった。

ガキの宿題、断られるのもまた良い経験と、仰々しくアポなど取らず、
母子二人でいきなり飛び込む。
何日もかけて六軒ほど回ったが、傍迷惑な奴らであるにも関わらず、
「夏休みの宿題で云々
と神妙に頭を下げるだけで、勿体ないことにどちらも
「うわー、大変やねえ、うちでよかったら何でも見てってや」
「ボク、うちのことに興味持ってくれたんやー、おおきになあ」
などと、涙が出そうなほど温かく応じて下さった。
写真を撮るのもOKだし、質問が古い時代の事柄に及ぶと、
奥からステテコ姿のご隠居さんも登場、話に花が咲く。

皆さんのご親切は歴史への招待状でもあった、大袈裟でなくそう思う。
ごく普通のおじいさんの何気ない昔話が俵藤太・藤原秀郷に行き着き、
図書館等で調べてみると実際に裏づけが取れたりしてアラ吃驚。
途中で養子を迎えたため血筋は途絶えているかもしれぬそうだが、
普段何気なく前を通っているお店が元を辿れば俵藤太の子孫だったとは。
三上山の百足退治伝説が急にカラーで立ち上がってくるではないか。

さて、最後に私たちはとある和漢製薬所を訪ねた。
下調べによると創業は元亀元年、『姉川の合戦』があった年だ。
が、お店と言うより工場だし、しかも現在は創業者一族の手を離れ、
中堅商事会社に営業権を譲渡したと聞いている。

苦い匂いが濃く漂い、時折建物の窓に白衣・マスク姿の人々が映る。
とてもじゃないが汗臭いTシャツ姿の母子が立ち入る所ではなさそうだ。
子どもと顔を見合わせ、門の前で引き返しかけたところ、
「何か御用ですか?」
五十台半ばと思われる上品な女性に呼び止められた。

その柔らかな声が再び松本良順をゆかりある人へと結びつけたのだ。

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良順先生の足あと (1)

PTA役員になると、校長室にて打合わせてなシーンにも度々紛れ込む。
七年前の春の日も、小学校の校長室で補助の折畳み椅子に座っていた。

凡その話が纏り、和やかに雑談って頃にはもう気が散っている不届者、
ヘラヘラよそ見していたら、ふと古ぼけた扁額が目に留まった。
『 尋常小学 ○○校 』と記された、旧制時代の校名額である。
建替えの際に外し、移されたものだろうか。
スチール棚の上へごちゃごちゃ積まれた箱の間から姿を覗かせている。

ただ漫然と眺めていたのだが、左隅の小さな文字に気付いた途端、
テーブルを跨ぎ組体操よろしく他人を台にして飛びつきたくなった。
【 正四位勲二等 松本順 】
すっかり剥げて見辛くなっているものの、脇には落款らしき跡も二つ。

なんと、良順先生ではないか!

松本良順(明治四年以降は『順』と称す)
若い頃、小説の影響で幕末にかぶれた時期がある。
私はとりわけこの人に強く魅了されていた。

彼を取り上げた作品は存外少ないようだ。
勿論、代表的なものとして司馬遼太郎の『胡蝶の夢』があるものの、
他に詳しい作品は広瀬仁紀『適塾の維新』あたりしか浮かばない。
人名辞典でさえ要点をかいつまんだごく短い記述に終わっているのだ。
それでも、目を凝らせばその要点がもたらす重量感に圧倒される。
そのうち句読点までもがとんでもなく劇的に胸の奥まで響いてくる。

余談ながら。
司馬作品の大好きな私だが、上記の二作で言うと、後者により惹かれる。
史上・架空を問わず登場人物の誰もが活々と体温を持って描かれてい、
松本も脇でありながら強烈な印象を残す。
(
これは最近のものだが、吉村昭『暁の旅人』も心を打つ作品である)

話は戻って。
やたら身近な場所で目にしたその名、意外どころの騒ぎではない。
旧街道筋にひらけた町とはいえ、地方の特色もない一小学校と、
松本という傑物とがどうにも結びつかないのである。

「良順先生は、本当にこの地へ足を運んだんやろか」
床に就いても頭の中はでいっぱい。
は枕に詰まった蕎麦殻と同調する。
輾転反側する度しょりしょり音を立て、余計に眠れやしない。

翌日、単身校長室を訪ねた。
会議の際にはうなずき要員としてちんまり座っているだけだが、
おのれの興味のためならやたら図々しくなれる人間なんである。

「あのう、そちらに掲げてある扁額なんですが」
「扁額ヘンガクああ、これですかいな」
どうやら校長先生は今初めて気付いたような様子。
赴任して日も浅いのである、無理もないだろう。
第一、ダンボール箱の陰でひっそり埃を被っているような有様なのだ。
一定の角度からでないとその全貌を見ることすらできない。

「昨日お邪魔した際、松本良順の手によるものと見まして」
「え松本良順ですかうーん」
できればざっと由来など聞けたら、そう思ってやって来たのだが、
「いえ、関心があるので写真だけ撮らせて下さい」
すぐに話を打ち切った(しっかりカメラ持参してんのな、がはは)
なに、休み時間には周りに子どもたちが鈴生りとなる温厚な先生なのだ、
松本良順にぴんと来なくたって少しも失望の材料にはならない。

それから疑問を解くべく暇をみては市内外の図書館をはじめ市役所、
また、各地区の郷土室等を訪ね資料を探し歩いた。
が、手がかりひとつ得られない。

胸中に燻りを残しつつ松本良順は小説の中へ帰って行った。

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きすけはぁ

私は自らをさして言うのに名前や愛称を使う女が大嫌いであった。
個人の経験則から図々しい奴に見られる特徴とはじき出していたせいだ。

勿論、芸能人ならばそれも売るために必要な戦略であろう。
古い話だが菊池桃子に対して腹を立てたことはないし、現在で言うと、
「ゆうこはぁ」
の小倉優子にも全く嫌悪を覚えない。
(
彼女の場合はパーソナリティーの確立という意味で頭の良ささえ感じる)

それに、中年を過ぎてのちはうんざりさせられることもなくなっていた。
いい年こいた主婦どうしの間で
「“るみ”はぁ」(註:仮名です)
などとやる馬鹿はさすがにいなかったからだ。

ところが。
家にPCというものが来てびっくらこいた。
ネット上にはそれを平気でやってるおばさんがごろごろいる。
仮想空間で若い娘を演じているならまだしも、中高生の母と名乗りながら、
「○○さんのレスがなくてしょぼんな“みえ”です」
「“まりりん”のまごころを花束にして届けます」(註:仮名です)
だと。
おいおい源典侍かい…ぞぞぞ。
そして、単にお花畑しているだけでなく、やはり皆経験則通り図々しかった。
どんな話題であってもやたら主導権を握りたがるのだ。

ところが、もう一つところがが続く。
二年前の或る日、ぼうずと話していて愕然とした。
「学校の連絡プリントはすぐおかあさんに見せなさい」
「なんであんたはおかあさんの言うことにいちいち噛みつくの」
「おかあさんもアイス食べたい、ついでに買ってきて」
…“おかあさん”の連発だったのである。
これだって“私”と言えば済むではないか。

    「 ♪ こんにちは 赤ちゃん あなたの笑顔
          ( 中         略 )
        はじめまして わたしがママよ ♪   」
大昔の『こんにちは赤ちゃん』のように、ぼうずが生まれてこのかた、
私はずっと“わたしがママよ♪”をやってきたのだろう。
無意識の内に母親である自分の存在をアピールしていたのが、
そのまま習慣になったのだ、自分でも気づかぬままに。
やたら主導権を握りたがるという点で言えば、上記の人々と一緒である。
思わず顔が赧らんでしまった。

勝手なもので、以後ネット上で源典侍を見かけてもあまり気にならなくなった。
そりゃまあ、決してお近づきにはなりたくないが。

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演歌ぞわぞわ

前後の脈絡が通らぬ、いかにもおばはんな一人語り乍ら、先日の続き。

グループ・サウンズの全盛期、私はまだ寝小便をしていたような年齢だった。
にも関わらず、
「この人たちはどうしてこうもワオギャオ叫んでいるのだろう」
と、幼心に気恥ずかしくなった記憶がある。

妙なことに、その気恥ずかしさは三波春夫・村田英雄を見ても同様だった。
三波の
「止めて下さるな妙信殿…行かねばならぬ、行かねばならぬのだああ」
という『大利根無情』の緊迫した名台詞。
村田の顰めっ面から突然極端に眉尻を下げて笑む不自然な顔面体操。
(
後年、清水アキラが物真似をし始めたとき、手を叩いて笑い転げた)
いずれもぞわぞわしたものが背筋を這い上がってくるような触感を覚え、
なぜだかやたら居心地の悪い状態に陥った。

当時のカブキモノであったGSも、既に円熟の型を成していた大物も、
幼い者の心中じゃついつい赤面してしまうという一点で同類だったわけだ。

だが、そういった感覚は、長ずるにつれあまり表に出てこなくなった。
勿論私のこと、郷ひろみのノーテンキな“キミたち女の子ぉ♪ ゴーゴー”や、
西城秀樹の空転気味なアクション、野口五郎の神経質なまばたき等、
アイドルに対し一人茶の間でツッコミを入れる嫌な小学生であったが、
それは自称ラーメン通の人間と同じく物好きを因とした態度に過ぎず、
生理的なものとは無関係である。

あの、名状し難い感覚が蘇ったのは、なんと21世紀になってから。
TV
で『天城越え』を熱唱する石川さゆりをぼんやり観ていたら、
間奏の大仰な所作と歯軋りするような表情に突如ぞわぞわが走ったのだ。
この曲がヒットしてより長年の間、別段何も思わず過ぎて来たのに、
今では『天城越え』のイントロを聴くだけでチャンネルを替えてしまう。

以来、再び色々な曲・人にぞわぞわを起こすようになってしまったのだが、
全て演歌系に限られている。
堀内孝雄も代表格。
出し惜しみするかのようにブツンブツンと声を切る歌い方。
いちいちワンフレーズ毎に右へ左へクイックイッ動かす首。
そりゃまあ“さんっきゅぅー!”と言わねばならんだろう。
最初から最後まできちんと付き合っていたらぐったり疲れるに違いない。

ところが。
冠二郎クラスになると一切を通り越して、てか突き抜けちゃって、
清々しささえ覚えるから不思議なものである。

彼こそメーターが振り切れるかと危ぶんだくらいのぞわぞわ神で、
「燃えろ燃えろ燃えろー」
と『炎』をメラメラ歌いだす度、耳を塞ぎ外へ飛び出したくなったのだが、
あるとき『バイキング』を熱唱する姿に
「この人は凄い、ホントの本気でやっている」
…心を射抜かれてしまった、気合いが尋常でないのだ。

それからというもの、彼がTVに出ていると、
「いよっ、カンムリっ、今日も一発濃いのを頼むぞ!」
と画面に呼び掛けてしまう、滅多に見かけないが。
最近の曲はまた地味な路線に戻ってしまったようで実に寂しい。


余談。
今でも反抗的なぼうずながら、最も顕著だったのはやはり中二~中三の頃。
高校受験と反抗期が重なるのってたまらんぜ、と頭を抱えることもあったが、
喧嘩になる度心の隅で思った。
「あ、こいつ、私に対してぞわぞわ起こしてやがる、クソ!」
と。

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演歌ぶつぶつ

演歌にはそれほど興味を覚えない。
周囲を見回しても、たとえおっさん・おばはん真っ盛りの四十代であろうが、
「演歌が好きだ!!」
と声高に叫ぶ人はそう多くないように思う。
子ども時分、TVをつければ当たり前のように演歌が流れてきたため、
耳が勝手に覚えちゃったという点は否定できないが、
演歌は既にその頃からおっさん・おばはんの好むものと認識されていた。

が、成人後、尻尾に付いた埃程度の者として演歌に関わった時期がある。
結果から先に言えば、何かずれてやしないか、と感じているうち、
衰退の一途をたどり、末節の仕事(と言えるかどうか)もなくなった。

当時…昭和も押し詰まった頃…の演歌には個々の特色がなく(殊に歌詞)
出る新曲みな『演歌』というタイトルで済ませられるように聴こえた。
同じシチュエーションや同じご当地を何人もの歌手に使い回させたり、
感情を伝えるのに形容詞ばかりを並べてお茶を濁したり、明らかに手抜き。
一人が『酒』がらみで当てると、みな右に倣えのアルコール依存。
また、『津軽』ばかりが大流行りのいっときもあり、首を傾げたものだ。
(
ただ、その中でひっそり咲いた美しい花も。
 
新沼謙治の『津軽恋女』は、他の作品と一線を画す【うた】だと思う)

今、演歌を耳にすると、感覚的に色物・際物のような分別をしてしまう。
大昔のヒット曲こそ心中で昭和後期年表のBGM的扱いになってはいるが、
薄く関わった時期以降の曲は殆どみな頭の横を通り過ぎ、
ぼんやり眺めた先のひとところへ吸い込まれてゆく。
『演歌の間』という札の下がったドアがばたんと閉まってそれっきり。
そう、【うた】としての情景が浮かばないままに。

だからと言って演歌を貶めるつもりなど毛頭ないのだが…。

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にゃらん!

身辺にちょっと面白くないことが起き、数日ふてくされていた。
TV
をつけりゃ変なシャツ着たとっつぁんがぞろぞろ。
爽やかなかりゆしウエアをああも胡散臭く見せてしまうとは皆さん流石だ。
公約した安倍さんでさえいかにも無理していますな違和感があったし、
渡辺善美は何だか国籍不明、中川昭一は無難な白だったものの、
彼に最も似合うのは山岡士郎風のよれたムードではなかろうか。


くさくさとした気分を払ったのは、じゃらんのCM
昨日初めて見たのだが、ヤラレタ!
すんげー安い人間なんで、愛らしいねこ一匹にたやすく救済されるのだよ。
ありがと、にゃらん君。

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