茅屋雑記帳

ボンクラ主婦きすけの気ままな日記

サザンはいつも古くない

高校ぼうずもZARDを聴いていたと知りしんみり…という話をしたが、
その際、iPodにどういった傾向の曲を入れているのか訊ねたところ、
ちっちゃい簡易スピーカーみたいなのに繋ぎ、流し始めた。

辛うじてわかるのはミスチル、スピッツくらいで、?な今どきの曲が続く中、
なぜかポール・アンカの『You Are My Destiny』が挟まっていたりする。
いったい何を基準に選曲しているのだろう、変な奴だ。

ちょっと感動したのは、サザンの曲がいくつか入っていたこと。
基本的にはずーっと変わらないのにいつまでも飽きぬサザンなれど、
それは自分が年寄だからであって、若い衆の感じ方はまた別、
ふーん、程度で済んじゃうかもと思っていたので意外だった。

サザンの、特にバラードは、どれも曲調が似ている。
詞も割合単純で、思いついた言葉を組み合わせた風にもとれる。
なのに、聴く度、忘れていたような思い出まで連れてくる。
YaYa~あの時代を忘れない』、『悲しい気持ち』(これはソロだが)
『メロディ』等、実際に自分の若かりし日を包んでいた曲でなく、
TSUNAMI』のようにいいおばさんになってからのものでさえ。

ぼうずが入れていたのは主に平成以降の曲だったが、
「ツウな奴はカラオケで『勝手にシンドバッド』を熱唱するで。
 
俺もフツーに歌うし」
とのこと。
あのー、それって、あんたのうざがるクソばばあが、
あんたと同じ年頃に歌ってた曲ですねんけど。

だが、サザンは別に神格化されているというわけでもない。
昔の曲も新曲も、
「なんか、ええやん」
と、すんなり心に入ってくるのだとか。

サザンって、本当の意味で、いつも古くないんだなあ。

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ZARD

坂井泉水さんが亡くなった。
四十過ぎの者にとってもよくその曲を口ずさんだ馴染み深い人だ。

驚いたのは高二のぼうずが帰宅して開口一番、
ZARDの坂井さん、亡くなってしもたんやてなあ」
と悼んだこと。

根強い人気があり、ずっと愛され続けてきたには違いないものの、
最近はその名を耳にすることが少なく、癌と闘っているのも知らなかった。
新陳代謝の激しい音楽業界、ガキにはぴんと来ないと思っていたのだが、
「俺、iPodに『マイ フレンド』入れてあんのやで」
と言う。
彼女の歌声は、最盛期にゃ小便垂れだった奴の心にも響いたのだ。

ご冥福をお祈り致します。

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大変だなあ、勘助 … 『消えた姫』

昨夜の『風林火山』は、色んな意味で笑えた。

由布姫の仮寓を清掃する勘助のむさい姉様被りとか、
「御屋形様と離れて暮らしてはゆけぬ」
という姫の激白に対し見せる、“へ?”と虚を突かれたような顔とか、
はい、笑うところですよ、な仕掛けがなくとも笑える。

史実から読み取れる背景はあっさり脇に置いちゃった上で、
ここ数回は女性特有の精神活動というか、生理面に繋がる感情の波、
ホルモンのバランスといった微妙なものまで匂って来、また興味深い。
それでも、姫に翻弄される勘助の姿が何となくコミカルに映り、
やはり今年の大河にはからりとした男性的な愉しさを感ずる。

実際、冒頭述べた勘助の“へ?”に浮かんだのは、
「最近悩み事ありますか?」
と訊かれ、イガグリ中学生が、
「女が何考えているか全然わかんない」
と答えるファンタのCMだった。

ま、このイガグリ君は、特定の人間に対象を絞ったんじゃなさそうだが、
男女間においての“わからぬ”という呟きは、ほぼ“愛”である。
どうにもわからぬゆえにわかろうとするヒトのサガ、
わからぬことはわからぬままに相手を求めてしまうヒトの業、
わかりようもないがどこか一点結びついていれば可とするヒトの諦念、
関係の遠近深浅に関わらず、私は上記による情動を“愛”と考える。

『利家とまつ』の決め台詞だった“私にお任せ下さりませ”や、
旦那様の真意は千代が体現しますといった『功名が辻』の展開に、
そういう物語なのだ以上の面白さを何ら覚えなかったのは、他に対し、
「わかってるって」
と軽々しく言い切れる善良な傲慢さへの抵抗だったのかもしれない。

ところで。
柴本幸の由布姫、とても良いではないか。
エキセントリックでありながら晴信とも勘助とも同じ空気を共有している。
個人的には特別整った顔立ちとも言えないように思うが、
時々万人受けする美女を上回る月光のような魅力が面に射し、どきっ。
先が楽しみな女優さんである。

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私もそこで呼吸していた

心・視野共狭い私だが、幼稚園児母の頃は結構社交も頑張っていた。
偏屈な母親のせいで子を孤独にさせてはならぬという思いから、
声をかけてくる人全てに愛想を振りまき、輪に加わってマイムマイム。

で、めっちゃ疲れた。
人と会うのが苦痛だったわけじゃない。
会って色々話したにも関わらず、必ず後で電話をかけて来、
「実際はこうなんでしょ、私には遠慮しないで話して」
「本当はこれこれこういう気持でいるんじゃないの?」
などと腹を探ってきたり、
「彼女、あんなこと言ってたけど、実はこういう状態らしいわよ」
と裏話を始めたりする人がいることに閉口したのだ。

直接顔を合わせあれこれ話した時間は一体何だったのか。
人の言葉とはそんなに薄っぺらくて信用できぬものなのか。
脱力である。
他人の事情・感情を隅から隅まで知り尽くさなきゃ友とは呼べない、
そんな空気が息苦しくて仕方なかった。

ぼうずが小学校に上がると、濃密な人付き合いから解放され、
嘘のように楽になった。
送り迎えをしなくとも自分の足で学校へ行き、帰ってきてくれる。
付き添っていなくとも勝手に約束をして広っぱで遊んでくれる。
親どうしが関わらなくて済むことにせいせいした。

ところが。
久方ぶりにひょっこり会うと、多くの人が同じ思いを口にした。
まことにソツなく、しかも気持の良い交友を心得ているように見え、
常々感心させられた人たちでさえ、
「二人目(or三人目)だったからね、上の子のときはきつかったわー」
と言う。

そう、誰もが“不慣れなお母さん”という時期だったのだ。
自身に対する不安から、他人の目ばかり気にしていたのだ。
皆がやだやだと思いつつ、皆でうざい空気を生み出し支えていたのだ。
心中の鏡に向かい“私は違う”と気取ったポーズを決めてみても、
おのれとて紛れもなくその構成員だったのである。

道端で幼稚園バスを待つ若いお母さん方に会釈するとき、
私は今でも束の間複雑な思いにとらわれる。


むろん、何もこれは“不慣れなお母さん”たちに限った話ではなく、
あちこちで当たり前のように起こっていることだ。
人が集まるところ必ず『私たちの正しい在り方』てな空気が生まれる。
次第に感情の自然な温度差さえもが自治の対象へと変化し、
本来個々に異なる筈の他人との距離の取り方において混乱を来す。
掲示板やSNS等ネット上の世界も例外ではないのだろう。

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性癖

スーパーへ行く。
或る品が視野に入る。
たとえ特売になっていなくとも、まあ妥当だと思われる値段なら、
殆ど反射的にレジへと運んでしまう。

それは何か。
トイレットペーパーだ。

18
24R入りのパックを最低四つはストックしていないと不安。
それも、よしよし、まだ余裕だな、とにっこり確認できるよう、
ぱっと目につくところへ置いておかなければ平常心を保てない。

その上でなお、18R入りパックを二つ、押入れの天袋に潜ませてある。
購入してから五、六年はゆうに経っていよう。
たまにカビが生えていないか点検しているのだが、今んとこ大丈夫。
いざ、って時のために貯えた物は、いざ、って時に使おうという律儀者ゆえ、
入れ替えが面倒なだけだろ、とおのれに問わぬ点も律儀なのである。

何故こう気にしてしまうのか、特別な理由はない。
小学生の頃、第一次オイルショックがあり、トイレットペーパーのみならず、
ノート等紙製品全般が品薄になったことははっきり記憶しているが、
噂が先走ったための一時的なもの、実際に窮したわけではなかった。
結局、単なるしょうもない性癖としか言いようがない。

徒口は散漫且つ冗漫に続く。
実家じゃオイルショック当時まだロールタイプの紙は使用しておらず、
和式便所の隅にどさりと重ねられた焼海苔大の紙を使っていた。
正式には『ちり紙』なんだろうが、うちじゃ『落とし紙』と呼んでいたそれは、
縮緬様の加工が施され、なかなか使いやすいものだったように思う。
時々母親が“安かったから”と少し黒っぽい色の品も買ってきたが、
ごわごわと肌触りが悪く、特に痔持ちの男連中には不評だった。

これらの落とし紙は、もともと土産物の柿でも入っていたものだろうか、
緑の蛍光ペンみたいな色をした平たいプラスチック籠に積まれてあった。
また、その籠と見事にカラーコーディネイトしたかのようなネット入りボール、
まず自身こそ臭い消臭剤であるが、それも正面上方にぶら下がっていた。
いつも所在無くしゃがみながら嫌だなあと睨みつけていたものだ。

ロール式のトイレットペーパーを使い始めたのは中学生になってから。
ある日便所の壁にホルダーが出現、カラカラ金属音の響く生活に変わった。
こんな幅の狭い紙でケツを拭き、うっかり手に付きでもしたら…と思い、
初めのうちはこわごわ使った憶えがある。
中二まで木造の校舎で過ごし、便所も独立した旧式の細長い建屋、
備え付けの紙などなく個々に持参したため、全く慣れていなかったのだ。

ついでながら、花子さんの怪談はその頃から人口に膾炙していた。
当時は、
「三度回っては~なこさん」
こう呼び掛ければ、下から赤い手が伸びてくる、と言われていたっけ。
塀際にひっそり横たわる日当たりの悪い建屋は確かにブキミだったが、
排泄という行為への忌諱・羞恥と好奇が綯交ぜになった影のような話で、
今となれば180度転回させたアニミズム、てな気がしないでもない。

それはさておき。
頼りなかった筈のトイレットペーパーを無意味に買い溜めしてしまう現在、
落とし紙を使ってもしっくりこないだろうか。
それとも昔の感覚がよみがえり、心地良いものだと思うだろうか。

わからん。
試してみようという興もあまり湧かない。
落とし紙は『洋式トイレ』ではなく『和式便所』でこそ活きるもの、
そんな気がするからだ。
近頃、最寄りのスーパーでも見かけなくなった。

ところで。
大昔、田舎の汲み取り便所の庇には手洗い容器が吊下げられていた。
長提灯を半分に切ったような形のタンクに水が入れられており、
底部のブリキ棒を押すとちょろちょろ出てくるという代物である。
もはやあれは絶滅してしまったのかもしれない。
少なくとも平成になって以降は一度も見ていないからだ。
それこそ『和式便所』どころか『厠』と呼ぶ場所に似合うあの容器、
今出会ったらついつい目頭を熱くしてしまうに違いない。
そんな私はやっぱりしょうもない性癖の持ち主である。

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ありがたいブログ

初代PCの調子が悪くなり、三ヶ月前に新しいノートへと替えたのだが、
その際、『お気に入り』の中でコラム的ブログだけを集めたフォルダは、
あまりに増えすぎたため敢えて引っ越しさせず、ゼロから始めた。

真に思い入れを抱いていたのであれば、再び求めてしまうはず、
そういった気持ちの深浅を‘コラム’フォルダの基準にしようと考えたのだ。

でもまあ、暫く経てば元の木阿弥、やっぱりどんどん増えてきた。
一時的な興味や備忘のために入れたところをそのままにしてしまうせいか。
何だか食器棚の奥から『峠の釜飯』の容器がごろごろ出てくるのに似ている。

そんなこんなで『お気に入り』の中の‘コラム’フォルダとは別に、
また‘お気に入りコラム’と名付けたフォルダをこしらえるという、
何やら泥縄風味の珍妙な有様となっているのだが、
そこには殆ど毎日訪れてしまう二ところのブログが鎮座。
この春、楽天からJUGEMに移られたお二方で、分類としては教育系なれど、
ボンクラばばあさえ夢中にさせる素晴らしいコラムを綴っておられる。

過疎村の茅屋とは言えこのように品下れるところ、紹介は慎むが、
PCを通じ、家に居ながらにしてさまざまな方の知見達識に触れられるなんて、
便利な世の中になったものだなあと今さらながらしみじみ思う。

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模範的回答

ぼうずが中三の冬。
推薦入試対策として一応全員に模擬面接の指導が行われた。

その際配られたらしいプリントを見、思わず“はあ?”。

『尊敬する人』の項にきったねえ字で“両親”と書き込んである。
ようもまあこんなに白々しいことをぬけぬけと…と大笑いした後、
「あんたなあ、こゆことは常識として言うもんっちゃうで」
そう釘を刺しておいた。
嘘臭さに対してではなく、みっともないという意味で出た言葉である。

TVじゃいい歳こいたタレントが普通にやってたりするものの、
くだけた場、気心が知れた者どうしの会話でもない限り、
人前で自分の親を“お父さん”、“お母さん”とは言わない。
中学生にもなりゃ電話の応対やきちんとした場においては、
謙譲を解して“父”、“母”とすべきだろう。
尊敬する人=両親という答えにも同じ恥ずかしさを感じたのだった。

ところが、
「それなあ、先生が模範例として挙げたんや。
 
“両親”または親のどっちかがええんやて」
とのこと。
本気でびっくりした。

家族関係の崩壊が社会全体の深刻な問題となっている昨今、
意図するところを考えれば確かに無難な答えではあると思う。
「尊敬する人は両親です」
の明るい一言で、たとえお約束の範囲内にしか過ぎなくとも、
まともな家庭に育っているという生温いアピールにはなるからだ。
それに、例えば歴史上の人物を挙げれば、
「どんなところが?」
と質問され、付け焼刃では緊張の余りしどろもどろてな恐れもあるが、
両親にしとけばそれ以上は突っ込まれまい。
また、
「天皇陛下です」
などと答える猛者が現れたりしたら中学校側としても慌てふためく。
(私自身は天皇皇后両陛下のたたずまいに惹かれる者だが)
ともかく、謙譲どころではない身内自慢の勧めという流れに、
却ってゆとりの無さを嗅いでしまうのは皮肉であった。

まあ、こういう母親への尊敬を誘導される身が気の毒、
そんな気持ちもあったが、上辺を繕うのも一つの勉強なんだろう。
型の無い社会なんか有り得ないし。


話は面接から離れるが。
謙譲は卑下と大きく異なる。
上下関係を背にしたへりくだり以前に、まずは他者の話を聞く、
今の世の中においてはそんな姿勢を表すように思われるのだ。
上からものを言うのは簡単である。
他の弱点を見つけて叩くという風潮が物語っているではないか。

しかし、他者を高めるという意識は同時に自分をも高めるもの、

謙譲の基本はそこにあると考えるのだよ、ダラ婆なんだけどね

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ほんっと、どーでもいーよ…

子殺し・親殺しその他、毎日嫌な事件が続く。
愛知の拳銃発砲立てこもりも警官が殉職され、ますます事態が悪化。
何でこれほど物騒な世の中になってしまったんだろう。

そんな中、どーでもいーよ感溢れる話題を提供しているのが青田典子。
この人は随分前に整形を暴かれた時も堂々と開き直っていた記憶があり、
チープなムードに却って好感を持っているのだが、今回も何だか笑った。
いったい誰に向かって謝っているのか。
芸能人が虚構の上に成り立つ商売なのは誰にもわかっていること、
大体、負け犬キャラというわけわかんない役に対し、
「青田さんには励まされるわ」
などと本気で思っている馬鹿がいたら顔を見てみたいもんだ。
皆さん、騙してごめんなさいったって、復縁したいと縋っている時点で、
考えようによっては十分負け犬、イメージ通りで結構なことじゃん。
大和田獏にも、幸せになって下さい、とか嫌味に茶化されてるし。

ということで、深刻な事件のガス抜きにはなったのかもな。

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凶行

十七歳の少年が母親を殺害、頭部を持って自首。

昨昼、テスト期間中のぼうずと共にもやし炒めを食っている際、聞いた。
「病んどる奴が病んだことをしたんやろ、きもいあほや」
「でもさあ、普通の少年だった、って話が後から出てくること、多いやん。
 それにあんたかておかあさんに『死ね!』とか言いくさったことあるで」
「またそうやってくどくどと何年も前の喧嘩を持ち出す…はー、うざ。
 口で言うのとほんまにやってしまうのとではどんだけ差があんのや。
 
『越えられない壁』どころの騒ぎっちゃうやろが」

あ、その口吻、2ちゃん覗いてやがるなこいつ、と思いつつも、
まあまともな考えであることに安堵し、
「あんた、たとえ冗談でも他人様に『死ね』とか言うとらへんやろね」
「当たり前だ、俺は石田師匠の博愛主義に倣っとる」
話がお気楽な方向へ逸れていった。
先日述べたゴルフ大会での見聞がひょいと出てきたわけだが、
折に触れ石田純一の名が口の端に上る家庭というのもいかがなものか。

こういった重大な少年事件に対し、さも考えさせられるてな顔で、その実、
「うちはそんなんじゃなくてよかったわー」
と、比較による満足を覚えている私の心根は卑しい。
卑しいが、昨年奈良で起こった高校生自宅放火殺人にしろ、
あまりの禍々しさに特殊な他人事としてさっさと切り離してしまいたくなる。

詳細が漏れればまた『社会の病理』云々と捏ね繰り回す者も現れるだろう。
だが、殺人者をクソタワケと言い捨てる社会のほうが健全じゃないのかな。
やっちゃいかんことはやっちゃいかんのだ、何があっても。

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『呪いの笛』

くどいようだが、うーん、やっぱいいわ、『風林火山』。

昨夜は奥向きの人間模様・内面心理を濃やかに描いた回であった。
…と、ここ数年の作品ならそれだけで終わってしまうところだったんだが、
一管の笛に暗示・暗喩を絡めた展開となっているのが今年の大河。
夜毎笛の音ばかり聴かされておってものう→いやまことに→わっはっは、
てな、家臣団の世慣れ上から目線談笑さえそれを際立たせているようで、
何だかもう、脚本の上手さに痺れてしまう。

だが、俗を絵に描いたような家庭、
子: 「さすがは源五郎、“お方様の呪い”とか言うてもおとがめなしか」
母: 「だな、今んとこボラギノール常用の気配は無さそうやけど」
子: 「あんたなぁ()…よそでそゆこと言うたらあかんで」
父: 「 (深く頷き) うむ」
とまあ、本筋と外れた会話ばかり交えつつ観ているのであった。

なに、これくらいのばばあ毒など可愛いもんだ、抵抗力つけとけ、
『摂理』だの『ひかりの輪』だの変な宗教にも欺かれず済む。

要はそんな者どもまで夢中にさせる面白さだと言いたかったわけです、
はい。

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田舎者が見た芸能人

地方に住んでいると、通常の暮らしの中で芸能人に出会うことはまずない。
実際私は、十七、八年前に新幹線の車内で桂三枝を見たきりであった。
三枝は時代劇の姫君風に頭から上着を被り、通路を歩いてきたのだが、
大仰な姿の割に目が合った途端ニヤリと笑みを浮かべる。
その、いかにも人目を気にする身分なのだと言わんばかりの挙措に、
「誰も『いらっしゃ~い』なんぞと声を掛ける気はない、安心しろ」
逆の意味で大きな声を掛けたくなった。

そんな田舎者がたくさんの生芸能人を目の当たりにしたのは三年前。
朝も暗いうちからクルマを飛ばし、ゴルフ大会を見に出かけたのである。
出場選手は中村雅俊、石黒賢、石田純一、西岡徳馬、里見浩太郎、
柴俊夫、渡辺裕之、松崎しげる、山本陽子、国生さゆり、菊池麻衣子、
冨家規政、細川たかし…段々めんどくさくなってきた…えっとオール巨人、
クラシアン森末さん、お天気良純、不思議発見マコトくん、スター錦野、飛猿、
栗貫、安達元彼アーサー、馬鹿よ馬鹿馬鹿馬鹿なのね♪香田、他大勢。

で。
「芸能人って思ったよりずっと小柄で華奢なんやなあ」
これが正直な気持ち。
国生さゆりも菊池麻衣子も綺麗ではあったが小さくて目立たず、
山本陽子の折れそうな脚も『!』だった。
また、男性に関してはスタジオ内のようにメークをしていないせいか、
肌は一般人と変わらず年齢そのものの荒れ方であった。

強く印象に残った人々を挙げると…
まずは中村雅俊、実に若々しく(肌年齢も)、気さくで飾らない人だった。
TV
の中にいる人から近所の父ちゃんみたいな調子で話しかけられ、
当時中学生だったぼうずは目を丸くしていた。
あんなにハーフパンツが似合う五十代も珍しいだろうな。

次に石黒賢、芸能人の目撃談としてよく出てくる
「顔が小さかった」
という言葉がこの人にはぴたり当てはまっていた。
TV
画面上では顎の辺りがもたついた丸四角い顔に見えるのだが、
実物は肌こそがさついているもののやたら小さい。
ついでにお尻もキュッと締まっていた。
が、握手してもらったおとんは、その顔に比してとんでもなくでかい手と、
野性的な腕毛が忘れられないそうだ。

最も鮮烈によみがえってくるのは、石田純一である。
見た目はむしろ髪のぺたっとした冴えない中年男、特に長身でもない。
しかし、そのサービス精神には脱帽、敬意すらわいた。
まあ、芸能人だからと言って常に虚像を売る必要はないんだが、
彼よりうんと小物の芸能人が一般人をぞんざいにあしらっている中、
老若男女を問わず終始にこやかに応対、逐一言葉までかけている。
あまりに親切・丁寧であるため途切れることなく人が集まり、
次から次へとサイン・握手を求められても、嫌な顔ひとつ見せない。
たとえ女にだらしなくともそれを容れられ芸能界で生き残ってきた底力、
その源を見たような気がした、わはは、大袈裟か。
けれども、
「あの人は地で優しい性格なんやなあ」
と、親子三人感嘆したのは事実である。

あとは…
細川=帳場の福助さんみたい、マコトくん=結構すっきりハンサム、
栗貫=神経細かそう、巨人=そうでかくないような、松崎=焦げ臭い、
森末さん=さばさばと感じ良し、アーサー=肌荒れひどし、錦野=品無し、
里見黄門=本人は鷹揚だがさすが大御所、皆一歩下がっている、
渡辺裕之=目が鋭い、良純=意外に地味、香田=コンパクト、
きわめて個人的な感想を並べると、こんなところか。

何にせよ、ミーハー心が満たされた面白い一日であった。

ちなみに、先日述べた定岡もレポーター的な役回りでそこにいた。
やはり同年齢の一般人とは明らかに違うすらり小綺麗なおっさんである。
なのにちっともドキドキしなかった自分を、ばばあになったな、と思った。

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親学

「教育再生会議、『親学』提言見送り、『押し付け』反発で」
なんだそう。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070511-00000015-maip-pol
当たり前だろうな。
以下はニュースから拾った『親学』提言のポイントなるものである。

① 子守歌を聞かせ、母乳で育児
② 授乳中はTVをつけない、5歳から子どもにTV・ビデオを長時間見せ
  ない
③ 早寝早起き朝御飯の励行
④ PTAに父親も参加、子どもと対話し教科書にも目を通す
⑤ インターネットや携帯電話で有害サイトへの接続を制限するフィルタリ
  ングの実施
⑥ 企業は授乳休憩で母親を守る
⑦ 親子でTVではなく演劇の鑑賞
⑧ 乳幼児健診などに合わせて自治体が『親学』講座を実施
⑨ 遊び場確保に道路を一時解放
⑩ 幼児段階で挨拶など基本の徳目、思春期前までに社会性を持つ徳目
  を修得
⑪ 思春期からは自尊心が低下しないよう努める

良さそうに思えた事柄を適当に見繕って並べただけという感を受ける。
⑥、⑧、⑨はそんなこと親に言われたって知らん、な事柄だし、
⑩も家庭における教育なのか、園・小学校における教育なのか、
向かう先が今一つはっきりしないので何とも反応のしようがない。
適当に見繕って並べたにせよ、一緒に混ぜ込んで話を煩雑にするな、だ。

①、②、③、⑤はわざわざ得意気に『親学』などと銘を打たんでも、
普通の親なら望ましい姿として出来うる限りやっていることだろう。
母乳に関しては出ない人もいるんだから、それこそ余計なお世話だ。
④は長閑な雲雀のさえずりが聞こえてきそうにお気楽。
大体、親子の対話や教科書の目通し(これも笑えるが)PTA活動を、
父親の教育参加てな括りで一纏めにする現実性の薄い発想自体虚しい。
サラリーマンにPTA活動させたいんなら、まずは雇用側に言ってくれ。
周囲にはPTA活動に取り組んで下さるお父さん方もいらしたが、
全員自営業主、その方々にしろ本業に全く影響がなかったとは言えない。
時間の都合がつきやすいからという善意により支えられていたのだよ。
⑦は提言するならカネをくれ、⑪は唐突且つ茫漠としすぎて訳ワカンネ。
とまあ、個人的には全項ざっとこんな感想しか持てなかったのであった。

どうせなら、
「生活の困窮が認められぬ者は、保育料や給食費をきっちり納めろ」
「親の趣味で年端もいかぬ子どもを茶髪・金髪にすんな」
くらいのことを言い切ってみたらどうだ。
それらのほうが『親学』として大切な心得だろう。

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