ボンクラ主婦きすけの気ままな日記
月曜の午後八時四十五分過ぎ。
いつものように助さんの
「頭が高い、控えおろう!」
にへらへらとしていたら、ちょうどそこへ帰って来たぼうずが冷ややかな一言。

「キムタクやもこみちや玉木みたいにいかにもおばはんが騒ぎそうなタイプならわかるが、
 あんたって何やしらん微妙な芸能人ばっか好きだよなあ」
やかましい、ストライクな顔が原田龍二なんだから仕方がないではないか。

眼福眼福と呟きつつ観る『水戸黄門』は、梅こぶ茶の味わいである。

 ♪ 好きだったのよあなた 胸の奥でずっと
    もうすぐわたしきっと あなたを振り向かせる

前項の『けんかをやめて』と同じく学生時代に流行った曲、ユーミンの作詞である。
当時歌っていたのは石川ひとみ。
元々は三木聖子の歌唱によりそこそこ売れた曲を石川ひとみがカバーしたところ大ヒット、昨年、徳永英明もカバーして再び話題になった。

「別の人がくれたラブレターを見せるとか、偶然を装い帰り道で待つとか、やな女!」
「だよなあ、そこまで回りくどい奴っておるか?」
と、この曲にやたら怒る友人がいた。
一人は生真面目な女子、もう一人はあっけらかんな性格の男子。
二人がぶつぶつ言うその手管は確かに笑える。
が、心理自体にさほどの抵抗はないなあ、と秘かに思った。

・・・・・私の好きな人とデートなんかしちゃってムッシュメラメラファイヤーにさせたあの子、
結局は振られたそうね、けど、私はその辺の女の子みたいに安っぽく媚びないわよ、
好きな人の方から自主的に好きだと言わせなくちゃ何も意味がないじゃない・・・・・
一、二番を繋げて意をまとめると、こんなところか。

いやはやお高いお高い。
だが、『けんかをやめて』が身勝手なお嬢心を飾らず語る曲ならば、この『まちぶせ』は、
青臭く完全を求める高慢なお嬢心を飾らず語る曲で、今なぞってみても不潔感はない。
何かってーと悲哀の涙に暮れちゃう自己憐憫女よりよっぽど清々しいってもんだ。


ついでながら。
この曲に怒っていた二人は卒業後何年かして結婚。
それはそれでまた微笑ましい出来事であった。

  けんかをやめて 二人を止めて
    
わたしのために争わないで もうこれ以上

学生時代に流行った曲である。
何年か後には作詞・作曲者の竹内まりやによるセルフカバーも耳にするようになったが、
当時は河合奈保子が歌っていた。

聴いた当初は、何でまたこんな、大抵の女にとって虫酸が走るばかりの曲を…と、
河合奈保子が気の毒になったものだ。
尤も、全体を通して聴くうち身勝手なお嬢心を飾らず語っている歌詞にむしろ好感を持ち、
ただ立っているだけでも可愛い彼女が歌ってこそ光る曲だとさえ思うようになったが。

実際に虫酸が走ったのは、この曲のシチュエーションのみに酔う身近なヒロインちゃんだ。喫茶店などで流れてくる度、
「そうなんだよねえ…」
いろんな男の人を傷付けてきた自分とやらを悩ましげに責めてみせる。
ある日、いいかげんめんどくさくなったんで、
「たぶん、あの子とは合わなかった程度でさっぱり忘れてくれてるんじゃない?」
と、とっても温かく慰めたら、人の気持ちがわからない人間だと泣かれてしまった。
けっ、自分は誰にとっても重要人物なのだと思い込める自信家が何を泣く。
確かに人の気持ちはわからん。
が、大して魅力的とも思えぬあんたがくよくよする必要などないってことだけはわかるよ。

この手の人っていくつになっても定期的に現れるから面白い。
一体どういう鏡を持っているのだろう。



ところで。
この曲、松田聖子が歌っていたらあまりに似合い過ぎてバッシングの嵐だったろうな。
柔道の泉浩選手がアテネ五輪に出場した際、大間のマグロ漁師であるお父上が、
【マグロ一筋】とプリントされた渋いTシャツを着て応援してござった。
「がーっ、欲しい欲しい、あれ欲しいっ!」
と叫んで家族に呆れられたが、同じことを思った人も多かったようでのちに発売され、
今なお人気だそう。
「どこへ着てくんや」
というぼうずの一言で我に返り、結局買わなかったけど。


『ちりとてちん』を観ていても、
「がーっ、欲しい欲しい、あれ欲しいっ!」
しょっちゅう一人で叫んでいる。
焼鯖をウリにしている魚屋食堂の鯖Tシャツにどえらい惹かれるのだ。

今日友春ぼんが着ていたのには【Yellow Sabmarine】の文字…盛大に噴いた。
他に【焼鯖道は一日にして成らず】、【雑魚とは違うのだよ雑魚とは】なんてのもあるし、
また、幸助さん着用の【仲良きことは美しき哉】や【鯖街道は男道】もいい。

鯖Tシャツを手に入れたら、当然、福井へ着て行く。
で、小浜の朽木屋商店にて焼鯖、かねまつにて特丼を食べる!
長いこと行っていないんで、余計思いが募るなあ。

ドラマでは、人と人が物凄く顔を近付けて向き合い、やりとりする場面がよく出てくる。
今朝の『ちりとてちん』でも、草々と小草若、草原と四草がそれぞれえらく接近し、
気持ちをぶつけ合っていた。

そういった場面を見る度、私はシチュエーションに関係なくひやひやする。
「うわっ、そんなに顔くっつけてきまり悪くない?」
「口臭は気にならんのか?」
と、つい余計な心配をしてしまうのだ。

通常、他人と30センチ以上顔を近付けて話すことなどまずないのではあるまいか。
実際、毛穴がわかるような距離でまじまじ他人の顔を見る・見られるのは度胸が要るし、
いくら神経質に歯を磨いていてもお口のニオイは大丈夫かと不安になる。
本来は人物の感情にリアリティーを持たせ、強く訴えかけるための演技なのだろうが、
茶の間で一人素の現実感を混ぜ込み、狼狽するのであった。

最も危険な人物は、織田裕二。
彼はどのドラマでも必要以上に顔を大接近させるので、どうも落ち着けない。
『振り返れば奴がいる』など、接近どころか接吻と見紛うような場面が頻繁に出てきた。
司馬と石川の厄介にこんぐらがった愛を際立たせる変な効果はもたらしていたが。

生まれたときから親が観ていたってことで、ぼうずも大河にはわりと親しい。
平成七年の『八代将軍吉宗』などもそれなりにぼんやり記憶しているらしく、
木登り中の子役・吉宗が、それを知らず真下でいい感じになっている兄と許嫁を見、
降りるに降りられず尿意を我慢するシーンはケッサクだったと言う。

だが、原点は竹中直人の『秀吉』、以来秀吉像があの顔で固まってしまったそうな。
ずっと以前書いたように、私の場合はかなり長いこと緒形拳を引きずってきたわけで、
人それぞれに歴史上の人物が様々な俳優の顔で浮かぶんだろうなと思うと楽しい。

そして、最もハマった作品には『新選組!』を挙げた。
どんなに瑣末な部分でも見逃すことのできぬ面白さがあり、毎回わくわくしたとのこと。

三谷幸喜脚本の『新選組!』は、“NHK大河”としての重厚感に欠けていたし、
香取慎吾の近藤には慣れるまでコツンと喉に引っ掛かるような違和感を覚えたものの、
元々三谷ファンである私にとっても好きな作品で、ぼうずとあれこれツッコミを入れつつ、
一年間じっくり観た。

三谷自身、青春群像劇であると述べていたように、特に傑物でもない普通の若者達が、
幕末の時代を飛び跳ね、苦悩し、突っ走るうちに“新選組”として史上に名を残した、
そんな描き方であったように思うが、若さ・軽みを表に立て、小ネタを盛り込みながら、
実は全体を通して見ると、タイトルバックの一番最後に翻る『誠』の旗の裏側に、
暗い色調の曼荼羅が打たれている、てな気がしないでもない。

山南切腹の回の素晴らしさは勿論だが、ぼうずにとってさらに忘れられないのは、
河合耆三郎切腹の回らしい。
「後片付けのときになって近づいて来た飛脚の鈴の“シャンシャンシャンシャン…”が、
 今でも耳に残っとんのや」
幼稚園の頃に観たNHK教育・子ども人形劇場『パンをふんだむすめ』より、
もっと強いトラウマになっていると言う。
確かにあれはずーんときたし、大倉孝二という俳優に唸った回でもあった。


ところで。
『風林火山』で今川義元を演じた谷原章介の姿に、
「『新選組!』の伊東甲子太郎といい、『大奥』の綱吉といい、今回の義元といい、
 美形も度が過ぎると主役を張れず、ロクな死に方をせん役になるんやなあ、
 俺も嫌味に見えんよう気ぃつけんとあかん…」
などとほざいていた。
はいはい、めでたい性格やのぉ。

『風林火山』が終わってしまった。 
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どんより冬ざれてきた西方の山並を無理矢理心象風景っぽく捩じ込んでみる。
寂しいぜ
一年間ありがとう。


ところで。
『風林火山』は主題曲からしてダイナミック。
「何ぼやぼやしとんねん、俺について来んかい!」
てな感じでいきなり胸座を掴まれてしまった。


大河においては音楽も愉しみのひとつ。
十年ほど前、レンタルショップで大河の主題曲集を見つけ、借りた。
そのときダビングしたテープ()は今でも大事にしているが、良いと感じる曲ってのは、
やはり当該ドラマも記憶の中からすぐさま名場面を取り出せる位惚れた作品ばかり。
『独眼竜政宗』・『太平記』などは、いつ聴いてもゾクゾクする。
殊に、前者の放映当時はまだ独り身、可惜華やぐ日曜を、
「八時までに帰宅せねばっ!」
と思いつつ過ごした自分の色気の無さとも相俟って、さらに愛着の度が深まる。

代々の曲の中でも特に好きなのは、『風と雲と虹と』と『武田信玄』だ。
実のところ、これらをもう一度聴きたくてその主題曲集を借りたのだが、
いずれも山本直純の作品であることを知り、ちょっとビックリ。

故・山本直純といえば、大昔、チョコレートのCMで自ら
「大きいことはいいことだー」
などと指揮し謳っていたように、やたら目立つ派手な鬚オヤジという印象ばかりが強く、
子どもだった私にとって親しみ易い存在である分、些かの軽さも感じた。
だが、気づかぬまま氏の音楽に強く心を揺り動かされていたのである。
遅まきながら深々と頭を垂れた次第。


今は、好みだった、一年間馴染んだ、という思いでなぞる『風林火山』の主題曲だが、
時が過ぎればワンフレーズ聴いただけでじわりとくるようになるのかもしれない。
粗雑に剥がしてきた毎月のカレンダーが副旋律の奥でひらひらと蘇る、そんな心地で。

『ちりとてちん』を観ていると、セピアに変色した写真がばらばら降って来る。
うがーっ、やめてくれー、な気持ちになることさえある。

水曜放送の、清海に理不尽な八つ当たりをする喜代美のみっともなさときたら…。
現実には喜代美みたく派手に爆竹鳴らしちゃう人など滅多にいないだろうが、
心情そのものに対しては思い当たるフシが色々。
A子ちゃん、あんたはなーんも悪ぅないんやに、ごめんな、堪忍したってな」
と、結構な数のおばさんが列島各地のお茶の間で代わりに頭を下げてたんじゃないか。
セーシュンってやつぁよぉ、ほんと無様で卑屈に湿っててそのくせしゃらっと傲慢で、
いやはやまったく『・・・・・・』だぜラララライ!ラララライッ!!

このようにひどく赤面しても不快じゃないのは、徒然カルテットに依るところが大きい。
草原・草々・小草若・四草が別の意味でセピアな気分を盛り上げてくれるのだ。
どいつもこいつもなーんか変で、んでもなーんかそれなりにまっとうで、ああいたいた、
こゆ子、と、同級生の姿が次々によみがえってくる。
四草の
「死んだらええのに」
「夕陽に溶けて無くなってしまえばええのに」
というきつい台詞には毎回プッと噴くが、そう言う四草も言われる小草若も愛おしい。
四草はグサグサ皮肉を呟きつつも、チャリの後ろに小草若を立ち乗りさせてたもんな。
嫌いならほっときゃいいのに何故か常にくっついて行動してんの。
草々は刑事さんになっててびっくらこいたものの、草原兄さんは家業を継いだんで、
実家に帰るとたまに会える、昔と変わらずあったかい笑顔だ。


で、草若師匠なのだが…。
以前、某掲示板の教育系カテゴリーで活躍されていた先生を思い出す。
顔も知らず文を拝見していただけなのに、そのお人柄と通じる気がして仕方ないのだ。
師匠が草々へ向けた、
「相手を見て、言葉を選んで、ものを言え」
という台詞には、特にはっとした。
言葉のみで繋がる掲示板の世界においてそのことを実践していらしたからだ。
ボンクラ婆が偉そうに言うことじゃないが、甘やかすとか気を遣うとかいうのでなく、
まずは意が伝わらなかったら何もならないし、人を指導することなど難しいわけで、
それは“先生”と呼ばれる職に就いておられる方の基本ではないだろうか。
勿論、掲示板の利用には様々なスタンスがあって当然、“先生”だからといって、
現実を離れてまで“先生らしく”在る必要などさらさら無い。
ただ、いつも草若師匠の『一杯のお茶』を振舞っていらした方だったなあ、と、
勝手にしみじみ思うだけのことである。
そう言えば、
「文は人なり」
度々こうおっしゃっていた。

やっぱり泣けたぜ、師匠復活の『ちりとてちん』。
万人が予想した通りの展開だったと思うのに、素直にじーんと来てしまった。

このドラマは、一寸いじましかったり時につまらんことを考えたりする当たり前の人々が、
めいめいの当たり前さでもって動いており、一見ドタバタした調子で進んでいくんだが、

何でだろ、みなそのしょうもなさの中にこそ空事ではない情味を隠し持っているようで、
観ているこっちが勝手に登場人物の一人ひとりを大事にしたくなっちゃうんだよねえ。
で、隅々まで観ていると、一人ひとりが画面の奥で抜からず丁寧な技を光らせている。

それにしても、たった15分の番組だってのに毎日その話をしたくなる朝ドラは初めてだ。

おとんもぼうずも出払った家の中に響く
「わははー ううう… ぐずぐずびー もっかいわははー」

てな声、音(ハナかむあれね↑)


『ちりとてちん』の、カンドーみたいなもん笑いにくるんでまえ、な世界が大好きだ。

仰々しい陶酔に対する照れが仄見え、むしろ登場人物の体温・情感が自然に伝わる。

実際、日々の暮らしの中でやたら心を揺り動かしていたらたまったもんじゃないわな、

普通の人は事ある毎に伴宙太と抱き合って滂沱の涙を流すわけにもいかんし。

とにかく、草々の

「底抜けに、おかえり」

は、何とも心憎い台詞でありました。



ネットの掲示板等を見ていると

「はい、素晴らしい話題を提供してあげたわよ」
「ほら、感動しちゃうでしょ」

「さあ、この意見に感心してちょうだい」

てな具合に変な方向へ力の入った文章と出くわすことが間々ある。
考えを述べることよりも自身への賛同を求めることの方に重点を置いており、
おのれの正しさに絶対の自信を持っているという姿勢以外は何も読み取れない。
で、そういう人は大抵レスを強要する。

高尚な考えのない私は、他人の都合に沿って盛り上がりたかねーよ、とだけ思う。

善人悪人粋人変人何でもござれの大好きな役者・松重豊さんが、
先月下旬からブログを開設したと知り早速拝見、味のある文章にますます傾倒。

松重さんが朴訥で心温かなおとうちゃんに扮するNHK連続テレビ小説『ちりとてちん』は、
毎朝大笑いさせられると同時に胸がきゅーんとなってしまう内容の濃いドラマだが、
このブログのおかげでまた新たな楽しみが増えそうだ。

ただ、ドラマ内の人々同様ふと気がつけば
 「♪ 今日から俺が おまえの寝床ぉ〜」
などと口ずさんじゃってんのよ、ううむ恐るべし、熊五郎。

明日は久々におとうちゃん他小浜組の出番もありそうなんで嬉しいな。

見終わった後、しばしぼんやりしてしまった。
千葉板垣、竜甘利、いずれも脳裏に焼きつく熱演である。

千葉真一ほど馬上の武者姿が威風堂々と映える役者もそうはいまい。
一歩間違えば大仰に堕す台詞まわしさえ却ってその意を重厚に響かせる。
右手に刀・左手に槍の二刀流は今回も出たものの、流石にニヤリとはできなかった。
また、今作における甘利の人となりを見るに、かなりの難役だったと思うのだが、
国を思うがゆえに抱え続ける重臣の猜疑と緊張感を竜雷太は見事に表現していた。
板垣信方の最期は主晴信が甲斐の国を治めていく上での理念を刻すものであり、
甘利虎泰の最期は甲斐の国から主晴信へと課される理念を刻すものであった、
陳腐なまとめながら私はそう感じる。

『風林火山』は、どこか劇画を思わせる芝居の大きさも魅力のひとつで、
前出の千葉板垣のみならず、内野勘助、亀治郎晴信からして、表情にも台詞にも、
デフォルメを意識したシーンが随所に見られる。
亀治郎の所作はそれこそ見得を思わせ、時に隈を取っているかのような錯覚に陥る。

このように曲者揃いの濃いメンツの中、知らぬ間に瞼に残像を浮かばせてしまうという、
不思議な存在感を示しているのが、河原村伝兵衛役の有薗芳記である。
実は今回最も胸を打たれたのも、板垣と元は百姓・伝助だった伝兵衛との主従の絆。
「伝兵衛、そちは見事な侍じゃ」